広野町勢要覧 -015/031page
折々の伝説を語る
奥州日之出松
浅見川河口の南岸(木実ケ浦)に見られる「日之出松」 は、日の出時における背景との美しさと、曲り松として 優美さから、尾上の松、高砂の松と共に日本三名松の一つに数え上げられています。さ らに、『安寿と厨子王』伝説との結び付きから、陸前浜街道沿いにおける名所となってい ました。
昔、この地方を治めていた岩城判官正氏が、謀反人により殺されてしまいます(筑紫 国に配流されたという話もあります)。そのために、奥方は安寿姫と厨子王、それに乳母 竹を伴って、諸国を巡る流浪の旅(筑紫への旅)に出ますが、途中海賊に騙され、二人 の子供は人質にさらわれてしまいます。奥方はこれを悲しみながら、乳母竹の里である 浅見川で亡くなってしまいます。一方、人質にさらわれ、厨子王とも離れてしまった安 寿姫は、やっとのことで悪者の手から逃れますが、辿り着いた浅見川の地に倒れ世を去 ってしまいます。これを哀れんだ村人達は、奥方と安寿姫のなきがらを埋め、そこに松の木 を植え手厚く弔いました。(この時に植えられた松が「日之出松」だといわれています)。
安寿姫と厨子王の乳母(姥)役となった竹女になりますが、二人を失った責任を感じ て、海に身を投じてしまいます。ちょうどその頃、浅見川の地では、怪しく美しい色合 いをした大蛇が、二人を埋めた松の木にからみつきながら天に昇って行きます。これを 見た村人達は、不安を感じ松の木を伐ってしまいます。しかし、後に、これは竹女が大 蛇となって戻って来たのだと思うようになります。また、伐ったときの切り口からは、 不思議なことに血が流れ出ました。この事があってからこの松のことを「血の出松」と いうようになります。現存している松は、伐られた松の根元から出た新芽が育ったもの だということですが、やがて「血の出松」が訛って「日之出松」と呼ばれるようになっ たともいわれています。
折木温泉開湯由来記
磐城平の城主であった内藤左京太夫様は、御領分の 中で盛んに新田の開発を勧めていました。 このような所に、折木村に住む忠五郎という者も、村の山根際の谷間辺りで、八反 歩ほどの土地を切り開いていました。しかし、激しい労働の疲れからか、ついに脚気に 罹り、三年ほど歩くこともできない不自由な身体になってしまいました。医者にもかか っていろいろな薬も飲んでみましたが、効果も無いので悲嘆に暮れる毎日を過ごしてい ました。そこで、この地の大鎖守である広野宮に御加護を願おうと、信心発起して十七 日間の間、昼夜を分かたずに祈願しました。そのようなある日のこと、片脚の傷ついた 一羽の鷺が飛んで来て、生い茂った薮の中に入って行くのを見ました。不思議に思った 忠五郎は、その薮の中に分け入ってみると、岩間から湧き出た泉に常が傷ついた脚を浸 していました。鷺は一日に何度となく飛んできては足を浸していましたが、十七日も過 ぎた頃、足の傷も全く癒えたのでしょう、いずこともなく飛び去って行きました。不思 議に思った忠五郎は、この湧き出る水を汲んで家に持ち帰り、風呂として焚いて二度三 度と入ってみたところ、身体の痛みも漸く治まりました。そこで、これこそ霊験ある湯 であろうと、毎日入湯したところ、病も治り元の身体になりました。思五郎は急いで大 鎮守の広野宮に参詣し、神主に一部始終を話したところ、「信心深い貴方に神の御加護が あったのです」と言われ、益々信仰の心を固めました。
元禄12年4月8日に広野宮の神主猪狩伊賀守橘常満が、この地に「大己貴命」、「小彦名 命」を湯泉大明神として祀り、鷺によって発見されたことに因んで鷺湯と名付けました。
太平の馬頭観音
折木の大平には、高倉の殿様の家来が、馬の訓練を 行っていた馬揚がありました。今、そこには、馬場に因んで馬頭観音様を祀る観音堂が あります。かつて、この広野の地でも馬産が盛んであった頃には、観音様のお祭り (三月十七日)は賑やかなものでした。また、こ こには、観音様に奉納された実物大の木馬が納められていますが、この木馬については いろいろな話が残されています。日露戦争のときでしたが、広野村からも、多くの馬が 徴発されて軍馬として戦場に出かけて行きました。このようななかで、ここの木馬が突 然いなくなったことがありました。そこで、村の人々は、観音棟の木馬も戦争に行った のだというようになりました。だから、観音堂の裏には、葉に鉄砲の弾の跡がある笹が 生えていて、その笹の葉を馬に食わせると馬が丈夫になるといわれ、馬を飼っている人 は、観音様にお参りに来たときには必ずその薬を持って帰って食べさせてやりました。