亜欧堂田善作品集 -059/065page

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亜欧堂田善(あおうどうでんぜん) 寛延元年〜文政5年(1748〜1822)

 亜欧堂田善は江戸時代の代表的な洋風画家です。
 鎖国政策をとっていた江戸時代中期、八代将軍徳川吉宗が洋吉輸入の禁をゆるめたため、 禁教であるキリスト教に直接関係ない蘭書が長崎の出島から江戸に入ってきました。 そこに示されていたのは、実学では、医学書の解剖図であり、世界地図、 動植物図等でした。絵画では、遠近法、陰影法を表現の画法とした西洋画でした。 それまでの視覚体験とは違った表現方法である西洋画に関心を寄せた画家や蘭学者が出てきました。
 洋風画の開拓者であった平賀源内(ひらがげんない)は鉱山開発のため秋田藩に招かれ、 そこで藩主の佐竹曙山(しょざん)や藩士の小田野直武(おだのなおたけ)に西洋画を 伝え、『秋田蘭画(あきたらんが)』が誕生しました。秋川蘭画の後を継いだのが、江戸の 司馬江漢(しばこうかん)でした。江漢は、本格的な西洋画法によって写実的な風景画を を表現し、日本最初の銅版画「三囲図(みめぐりず)」を天明3年(1783)に創製しました。
 江漢の後に出たのが、亜欧堂田善です。田善は小田野直武より一歳年上で、佐竹曙山と同年、 江漢より一歳若く、江戸時代の洋風画家と同一世代に属しますが、五十歳を過ぎてから江戸に 出て活躍したので、作品の制作時期は文化年間(1804〜1817)が中心となりました。
 江漢によって確立された洋風風景画に、田善は、遠近法、陰影法の西洋画の画法を駆使し、 精密、巧緻な表現技術によって、江戸の風俗という新生面を加えた新たな風景を発見し、田善独自 の風景銅版画を完成しました。
 田善は奥州須賀川(現在の福島県須賀川市)で、染物業を営む五代目永田惣四郎の次男として 生まれました。本名を永田善吉(ながたぜんきち)といい、亜欧堂田善、亜欧陳人(あおうちじん) などと号しました。
 宝暦12年(1762)の年紀のある絵馬「源頼義水請之図」が古寺山白山寺の観音堂(須賀川市)に奉納され てあります。田善15歳の作品で、絵馬の裏に「須賀川 絵師 永田善吉」とあります。
 田善の画風に最も影響を与えたのは、伊勢の画僧・月僊(げっせん)でした。田善は天明5年 (1785)伊勢に旅し、月僊に師事しました。 月僊の画風は、細身の長身に目は点のように描く人物像に特徴があり、その画風は田善が江戸に出て からの洋風画にもその影響が現れています。
 田善の一大転機は、幕府老中職を辞した白河藩主松平定信が寛政6年(1794)の領内巡視の途中、 須賀川に立ち寄り田善の「江戸芝愛宕図」が目にとまりその出来ばえに感心し、早速、御用絵師 であった谷文晁に入門させたことにあります。
 田善の銅版画技法の修得は、はじめ定信の命により司馬江漢にその技術を学びましたが、 「性遅重々(おそくおもおも)しく肆業運用にうとし」として破門されたので、 江漢に師事したのはごく一時的なものであったと思われます。そのため主君定信とその周辺に いた蘭学者の森嶋中良、石井恒右衛門らの協力と田善自身の研究によるところが大きいと考えられます。 そして、結果として江漢の技法をしのぐようになりました。
 田善の代表的な作品は、江戸名所を猫いた風景銅版画にあります。遠近法、陰影法の画法を 巧みに駆使して、江戸市井の様々な人物、風俗を風景におり込んで表現しました。そして、 田善独自の世界を開いた風景銅版画を完戌しました。
 一方、実用的な面にも銅版画の技法を生かしました・宇田川玄真が著した『医範提綱(いはんていこう)』 の挿絵に、日本最初の銅版画による解剖図「医範提綱内像銅版図(いはんていこうないぞう どうはんず)」を文化5年(1808)に制作しました。
 そして、主君松平定信の期待に見事に応え、官製の日本最初の銅版画による世界地図 『新訂万国全図』を文化7年(1810)に完成しました。
 肉筆洋風画にも江戸名所を描いた風景銅版画のように田善の特徴をよく表した風俗画的風景画 「墨提観桜図(ぼくていかんおうず)」、r両国図」、「今戸瓦焼図(いまどかわらやきず)」 (神戸市立博物館蔵)等の作品があります。又、人物のほとんどいない純粋な風景画「浅間山図屏風」 (東京国立博物館蔵)の大作があります。この大作は『写実的な洋風画と装飾的な屏風形式を結び つけようとした作品で、江戸時代洋風画の傑作であるばかりでなく、近代日本画の先駆としての 価値ある作品』といわれています。
 田善は文化9年(1812)から文化13年(1816)の間に郷里・須賀川に帰り、須賀川で制作活動を 続けました。文化11年(1814)に俳人・石井雨考(うこう)の著した句集『青かけ』の 挿絵に銅版画「陸奥国石川郡大隈滝芭蕉翁碑之図(むつのくにいしかわぐんおおくまたきばしょう おうひのず)」を制作しました。みちのくの地・阿武隈川にかかる名勝地「大隈滝」と、 芭蕉翁がおくのほそ道で須賀川を訪れ、この滝を詠んだ「五月雨(さみだれ)」の句碑を描いた この作品は、江戸名所の浅草寺を描いた「大日本金龍山之図」とともに風景銅版画の代表作です。
 はじめ銅版画の技法を江漢に学んだが、「性遅重々しく肆業運用にうとし」として破門 されたが「銅鐫(どうせん)のわざは江漢の上にいでし、江漢もその人をあやまりし りぞけし事を自悔して善吉がわざを称誉し、善吉はまことに日本に生まれし和蘭人(おらんだじん)なり」 と、江漢は伊能忠敬(いのうただたか)に対して田善について 述懐したといわれています。


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