吉田冨三記念館だよりNo.7号 -009/016page

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も吉田先生だった。

 私が米国でポストドクトラルをしていた頃ボスのHarris Busch教授がAcademic Pressから”Methods in Cancer Research”という癌研究法のシリーズを出した。その時、「日本では先ず、YoshidaとNakaharaに書いて貰いたいがどう思うか」と聞かれた。私は勿論賛成し、それらはこのシリーズの初期の巻を飾っている。このように吉田先生の名は外国でも癌の研究者の間では領域を越えて良く知られていた。

 私が帰国した翌年(1966年)、第9回国際癌会議(ICC)が日本で初めて開かれ、吉田先生が会 長をされた。日本の戦後の復興がようやく軌道に乗ったばかりであって、今の所謂「学会屋」さんが 殆どなかった時代だったので、癌研究所を挙げての行事となった。欧米からも多数の著名な学者(DulbeccoやHeidelbergerの顔は今でも思い出す)が集まり、大盛会であった。新参者の私は特に外国 人学者の案内や接待などで大いに働いたが、吉田先生の堂々とした会長ぶりは誇りに思ったものである。

 そう、吉田先生の想い出で忘れられないのは「峨々シンポジウム」である。その来歴はよく知らないのだが、毎年夏に吉田先生のお弟子さんを含む有志が宮城県の峨々温泉という鄙びた温泉に集まり、 2〜3日合宿して討論する研究会だった。当時の錚々たる癌研究者の話が聞けるとあって、私もよく参加させて戴いた。昼は研究の発表、夜は酒を酌み交わしながら、また学問の話にのめり込んだ。会場は 畳の大広間だったので、長い間、座っているのは苦痛である。それで吉田先生やその他年輩の方々は 横になって手枕で聞いて居られたのを覚えている。それでも討論は厳しく、決して横になっていても 失礼ではないという感じであった。「峨々シンポジウム」についての記録はないものであろうか。私が 行くようになった頃は、吉田先生はどちらかというと聞き役に廻って居られたが、時に鋭い質問を発 して演者が立ち往生した場面もあった。誠に懐かしい、古き佳き時代の集まりではあった。

 私事になるが、東京大学時代に若い研究者(特に転写領域の)を集めて、「朝霧シンポジウム」と いうのを十年間ほど行ったが、この「峨々シンポジウム」の雰囲気が忘れられなかったのかもしれない。

 その後、吉田先生は肺癌を患われ、比較的長い療養の後、70歳で亡くなられた。病が芳しくないので、極く側近の先生方しかお見舞いにも行けなかったが、或る日、秘書の島野さんが私に吉田先生が「あのテキサスから来たでっかい男はどうして居る?元気か?」と聞かれたと話された。大変嬉しく力づ けられた記憶がある。

 今年の第61回日本癌学会総会は北川知行癌研究所所長が会長となって”研究と個性“をテーマ として開かれるという。また、その名のパネル討論も開かれる。北川さんに奨められて数学者であり、 著述家としても有名なお茶の水女子大学の藤原正彦教授の或る講演の記録を読ませて戴いた。それは、 「論理と情緒」という題で学士会における講演であるが、大変興味深い内容であった。一言に言うな らば、「数学も科学も論理の学問であるが、論理が正しいだけでは駄目で情緒的な価値が必要である。 後者は論理では説明出来ず、直感でわかるものであり、それにはその国や民族の文化が関係している」 とするものである。確かに数学でも定理は論理的に証明されるが、最終的には公理となり、これが正 しいかどうかは直感でしかわからない。そして、その判断は正に情緒的なものであり、従って、個性 的なものとなる。これを読んで私はすぐに吉田先生を思い出した。そして、何故、北川さんが今年の 日本癌学会総会にこのテーマを選んだかを知ったのである。

 論理と情緒、または個性。これを吉田先生はよく知っておられ、また研究に実践されたのであった。


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