吉田冨三記念館だよりNo.7号 -008/016page

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研究と個性 吉田富三先生との思い出

村松 正實

埼玉医科大学ゲノム医学研究センター 所長   村松 正實

 編集部から吉田富三先生の想い出を何か書くようにと言われたが、私は先生とは研究分野(分子生物学と病理学)も違うし、直々の弟子でもないのでそれ程深いお付き合いはなかった。従って、どれ程正しく先生を描写出来るかは自信がない。記憶も今や確実でないので間違っていたらお許し願いたい。

 1965年、私が米国から帰国して東京大学第一内科に戻ったが、分子生物学をやりたくてもやるところがなくて困っていたのを当時、癌研究所の病理部長をして居られた菅野晴夫先生の御推薦で癌研究所生化学部(当時、部長は小野哲生先生)に拾って戴いたが、この時の癌研究所所長が吉田富三先生であった。もっとも、それよりずっと前に東京大学医学部で病理学の講義を停年になられる前ほんの僅か聞く機会があった筈であるが、残念ながらよく覚えていない。しかし、一度所謂ムントの試験(口述試験)を受けたことがあり、標本の鑑別診断を誤り、大変恥を掻いたことを覚えている。確か、HypernephromかChorionepitheliomだったのだが、後者をすっかり忘れて前者を主張してしまった。「君、外のことは考えられんかい?」と聞かれ、「考えられません」と言ったら「はい、よろしい」と言われて終わった。後で気づいて「これはもうビーコン(ドイツ語のwiederkommenから来ていて追試験のこと)だと思っていたら何とか通っていたが成績は悪かった。吉田先生は「このような学生は科学者にはとてもなれまい」と思われていたに相違 ない。しかし、それから13年後にお会いした時に勿論全く覚えて居られず、私の方から「先生の試験は殆どビーコンに近かったんです」と話すと 「アハハハ!まあ、これからしっかりやんなさい」と言われ、身の引き締まる思いをしたことを覚えている。

 吉田先生はその後お亡くなりになるまで所長をされ、我々を指導される一方、文部省(現文部科学省)に「がん特別研究」を打ち立てるなど強力な政治力も発揮された。また、その広い学識で国語審議会の委員などもされ、日本文化の維持、発展に力を尽くされたことは御承知の通りである。

 吉田先生の学問に関しては、有名な吉田肉腫の発見や肝化学発癌から腹水肝癌の作出など、どれも素晴らしいものばかりであるが、それは皆、実に個性的であると同時に先見性のあるお仕事であったと思う。

 既に、十分な評価がされているので詳しくは述べないが、先生は先ず、物事(この場合「癌」)の本質を直観する能力とこれを人が考えない(個性的な)方法論で解明しようとする能力を持って居られたと思う。

 癌の研究は、病理学から始まったわけであるが、先生はその方法論をトコトン利用し発展させて現代の分子生物学的研究への橋渡しをされたと言ってよいであろう。「癌の個性」という独自の考えは細胞一個釣りによるクローン化から、その遺伝子的構成の変化を探る現代的方法へと繋がっている。癌の化学療法の可能性を一番最初に予言して石館守三先生と共にnitrogen mustardを使用されたの


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