ふくしま文学のふる里100選-017/30page

[検索] [目次] [PDF] [前][次]

ふくしまの古典文学


19 野雁集(ぬかりしゅう)
安藤野雁
和歌  元治元年(一八六四)

 家庭的に恵まれず、貧窮と流浪のうちに死んだ野雁は、歌を詠むことと万葉集の研究にみずからを慰めた。 家集に『野雁集』があり、明治になってから佐佐木信綱らによって認められ、世に知られるようになった。

  いづこかはさしてわがやどゆきまじり野にも山にも花のへに寝む

  何事を思ふとなしの酔泣(ゑひなき)にたねなくおつる我なみだかな



23 信達歌
熊阪台州
漢詩  天明七年(一七八七)
信達歌
 天明三年(一七八三)以降続いた大凶作、洪水、飢饉と、それらによる多数の死者とを目の当りにみて、信達地方の人々を励ますために書かれた、信達の地やその歴史などを歌った長詩(七言で一四七句より成る)である。

 また、友人鹿芝■人(ろくさいぼうじん)(向鎌田月の輪の人)が、土湯、本宮、二本松に遊んだ自分の行状を、台州が指導する信達詩人たちに筆記させ、これに台州が筆を入れて成った『魚籃先生春遊記』(天明元)も福島に関わる書である。


25 可笑記(かしょうき)
斎藤親盛
仮名草子 寛永一九年(一六四二)

 『徒然草』にならって、日本や唐の国(中国)の故事や自分の見聞を記したもので、仮名草子に共通する教訓的内容となっている。一般読者特に武士や学者が読むことを期待していたようで、社会、人生に関する意見や教訓を中心に、法談、小咄等も混えている。

 二本松の藩儒、大鐘義鳴(おおかねよしあき)はその著『相生集』の中で、『可笑記』を斎藤家から借りて読んだことを記しており、これから長らく不明であった著者が親盛であることが、十余年前に明らかになった。


26 黒塚/安達原
金春禅竹/巌谷小波
謠曲/物語  室町時代中期/明治二九年(一八九六)
黒塚/安達原
 黒塚は平兼盛(たいらのかねもり)の「みちのくのあだちが原の黒塚に鬼こもれりと聞くはまことか」の古歌にちなむ名所で、古くは『大和物語』、謠曲『黒塚』(観世流『安達原』(あだちがはら)とも)となり、また江戸時代の淨瑠璃歌舞伎(じょうるりかぶき)、『奥州安達原』(おうしゅうあだちがはら)となって世に知られている。

 謠曲は山伏祐慶(ゆうけい)が鬼女の家に一泊し、念力で災難をまぬがれる話であり、歌舞伎は安倍家再興を計る一族と、源義家との対立のなか、安倍方の岩手御前が鬼女の役割で登場する話である。

 真弓山観音寺境内には観音堂と鬼の住んだという岩屋(奇岩大石の集まり)がある。黒塚というのは、観音寺の門前を左(北)に行った所にあり、鬼をうずめた所だと、おくのほそ道の芭蕉も聞かされている。  

 明治になり児童文学者巌谷小波は『日本昔噺』全二四編の中で『安達か原』を書き全国の子供たちに愛読された。
安藤野雁(あんどう・ぬかり)
文化一二〜慶応三・三・二四。半田銀山の役人の家に生まれ、瀬上の内池永年の門人となり、共に本居大平に師事。主家の転任にともない大分の日田、江戸と移り、その後は放浪のうちに埼玉の熊谷で没した。旅中も筆を放さなかった『万葉集新考』は、畢生の事業である。

熊阪台州(くまさか・たいしゅう)
元文四・四・二三〜享和三・三・二一、伊達郡高子(現、保原町)生。江戸時代の漢詩人。名は定邦また邦(ほう)、字(あざな)は子彦、通称宇右衛門。宝暦一〇(一七六〇)年江戸に遊学、郷里では白雲館(自宅)社中の人々と詩文を通じて交わる。窮民の救済にもあたった。
 著作に『西遊紀行』、『永慕編』、『含E(がんとう)紀事』(児童向昔話の漢訳)、『律詩天眼』などがある。
白雲城跡

斎藤親盛(さいとう・ちかもり)
?〜延宝二。山形の最上家臣の家に生まれたが、浪人して武蔵の国(江戸近在か)に住んでいた。その人物を知った二本松藩主丹羽光重が、親盛の子秋盛を召しかかえて以来、二本松に住むようになったらしい。
二本松には子孫が現在も在住し、松岡寺には親盛ら一族の墓がある。

金春禅竹(こんぱる・ぜんちく)
応永二〜文明三。能役者、能作者。『杜若(かきつばた)』『小督(こごう)』など多くの謡曲を書いたが、その全体像はまだ明らかではない。能楽論も多い。

[検索] [目次] [PDF] [前][次]

Copyright (C) 2000-2001 Fukushima Prefectural Board of Education All rights reserved.
掲載情報の著作権は福島県教育委員会に帰属します。