ふくしま文学のふる里100選-018/30page
安達原の鬼が住んだという岩屋
31 好色一代男
井原西鶴
浮世草子 天和二年(一六八二)
主人公世之介の、幼時から六〇歳をこすまでの好色遍歴をえがいたもの。全国を股にかけて漁色の旅をするなかに、奥州へもさしかかり、「なを奥すぢにさしかかり、八町の目、大宮のうかれ女を見尽し、仙台につきてみれば」とある。この「大宮」は、八町の目(二本松北)との関係から、本宮の誤だろうと言われている。本宮は、同じ西鶴著の『一目玉鉾』(ひとめたまばこ)に「旅人さだまって泊所なり。遊女有ておもしろし」とあるから、それは十分に考えられることである。
33 復讐奇談安積沼・安積沼後日仇討(ふくしゅうきだんあさかのぬま・あさかのぬまごにちのあだうち)
山東京伝 読本・合巻
享和三年(一八〇三)・文化四年(一八〇七)
この二つの読本、合巻(ごうかん)(小説)はいくつもの敵討(かたきうち)が重って複雑な話となっているが、その中心をなす人物は「小幡小平次」(こはたへいじ)で、幽霊役者として有名な小平次が、「安積郡笹川」で興行の後、「安積沼」で殺され、その怨霊(おんりょう)が復讐するというのが太い筋となっている。『後日仇討』の方では、まだ成仏しない小平次の亡霊が、やはりいろいろの復讐に加わるが、最後にそれが安積沼に住むかわうその仕業だということがわかる。
古典の名所「安積沼」が怪談の現場とされているが、この作品の一五〇年も前におくのほそ道の芭蕉が訪ねても判らなかった安積沼であるから、この舞台を確定することはできない。
この作品は好評で度々脚色上演された。大正一三年、郡山出身の鈴木善太郎がこれをもとに『生きてゐる小平次』を出して評判をとっている。
34 艮斎文略(こんさい)
安積艮斎
漢文集 天保二年(一八三一)
『艮斎文略』は漢文集で、かな文集『艮斎J話』と並ぶ艮斎の代表的著作である。聖賢論あり、史論あり、諸書序文あり、紀行文あるいは偶感ありと、名文家艮斎の面目躍如である。中でも文学的なのは紀行文で、たとえば『東省日録』など郡山帰省の記録には、艮斎の山水愛好癖、家郷思慕の念が読みとれて面白い。
41 伊達衣
相楽等躬
俳諧 元禄一二年(一六九九)
『伊達衣』は須賀川の俳人・相楽等躬が編んだ俳諧集で、芭蕉関係の発句や俳諧が多く収められている。芭蕉とは、芭蕉がプロの俳諧師になる前からの付き合いがあり、芭蕉の宗匠立机披露に発句を贈ったことや、奥の細道の途次にある芭蕉を自宅に迎え、七泊させたことでも知られている。
『陸奥名所寄』(別名『蝦夷文段抄』)という歌枕研究書もあり、芭蕉も行く先の歌枕について尋ねている。そのことは、元禄二年刊になる等躬の俳諧集『荵摺』(しのぶずり)に出ており、同書には「風流のはじめや奥の田植歌」等、芭蕉が須賀川で詠んだ三吟歌仙その他が収められている。
42 晴霞句集(せいが)
市原多代女
俳諧 嘉永六年(一八五三)
市原多代女の代表的な自撰句集。六五六句を収める。晴霞とは多代女の別号で、この集の中の
水かさに車はげしや藤の花
は、大正・昭和期の文部省小学唱歌「藤の花」にとり入れられているほど、多代女は幕末を代表する女流俳人として全国に知られた人である。
芭蕉を尊敬し、須賀川の十念寺に大きな田植塚を建立している。句は平明で清朗、俳句のよさをしみじみと感じさせる句境である。また書にもすぐれ、彼女の半切や短冊は多くの人に愛蔵されている。
巌谷小波(いわや・さざなみ)
明治三・六・六〜昭和八・九・五、東京生まれ。本名季雄。尾崎紅葉らと硯友社をおこしたが、のち児童文学者として活躍し『こがね丸』などの作品を残した。
井原西鶴(いはら・さいかく)
寛永一九〜元禄六・八・一〇。大坂の町人の家に生まれ、俳諧を学びはじめ、西山宗因らと談林の新風を送る。後に浮世草子作者となり、多くの作品を残した。
山東京伝(さんとう・きょうでん)
宝暦一一・八・一五〜文化一三・九・七。江戸の黄表紙(きびょうし)・洒落本(しゃれほん)作者。たびたび幕府当局の取締にあいながらも戯作者(げさくしゃ)として活躍し、多彩な町人芸術を作り出した。
安積艮斎(あさか・ごんさい)
寛政二・三・二〜万延元・一一・二一。郡山の安積国造社神主の三男に生まれ、二本松で勉学の後江戸に出奔。佐藤一斎、林述斎の門に学び、神田に塾を開き学名が高まった。二本松藩学校教授となったが、間もなく幕府儒官となり、昌平黌教授に昇進した。
門下生は三千。吉田松陰ら幕末の志士、重野安繹ら明治の学者も多い。
相楽等躬(さがら・とうきゅう)
寛永一五〜正徳五・一一・一九。江戸の諸色問屋(しょしきといや)に通って商品の売買をしていた商人で、須賀川俳壇の中心人物である。