教育福島0001号(1975年(S50)04月)-005page

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巻頭言

 

福島県教育委員会教育長 三本杉國雄

の緑がにおうような、やわらかい色を見せ始め、初夏の装いが濃くなってきた。

 

最近めっきり、庭の樹木や盆栽の緑がにおうような、やわらかい色を見せ始め、初夏の装いが濃くなってきた。

私も同僚の指導を受けて、さっきや松、さては紅葉、けやき等々、雑木にいたるまで毎朝毎夕、水やりに余念のない日が続いている。先生がたも、それぞれの趣味に応じてこの初夏を満喫しているものと思う。年度始めの学校の組織も順調なすべり出しを示したことだろうし、自分の属している種々の会の役員もおさまるところに落着いた。まずまずこれからというところだろうと思う。

さて、本年度から従来あったいくつかの情報機関誌を統合して、この「教育福島」を創刊することにした。これまで各課各様の意見が出て、相当難航した結果であることもちろんである。

ともすれば狭い領域から、いわば「針の穴」から、天井をのぞくような立場に身を置きがちである。そこで、開けた視野・視点をとり戻して総合誌的なものとし、先生がたに読みごたえのあるものにしたい、と期待したのも事実であれば、他面総需要抑制下のなせる仕業であることも正直に告白しておくことが賢明であろう。

現場の先生がたも一方的な情報提供の洪水に見舞われて、どちらをどう捕らえてよいのか戸惑いさせられている面もあるだろう。私自身数日も過ぎると卓上に積み重ねられて、いっこんなものが飛び込んでいたかと驚かされる始末である。

何せ週刊誌がはんらんしている世相下、手軽にしかも気やすく読み下すことが習い性となってしまって、ちょっとむつかしいものは題目だけ見て、ぐっと拒絶反応を示す人も多い時代であることもまた、見逃し得ないようである。しかし単なるタレントたちのゴシップから、糧となるものはつかみとることはできないはずであるし、また裏返して考えてみると、つかみどころのない点が週刊誌の存在意義かも知れない。

といって、習慣となってしまったからと初めから「教育福島」を一にらみしただけで、手にとられないようでは困ることだし、内容そのものに魅力がなければ、飛びついてっかもうとする意欲もわいては来るまい。編集子のざん新な創意と工夫があってこそ、と望むのは私一人ではあるまい。

広いマスコミ界は、危機感を内容とした教育談議をにぎわしているが、その論点は真実に教育を憂えているものから、社会の動向におもねるもの、教育ママをいらだたせ、さらに困惑させるものに至るまで、それぞれの立場を押しつけようとするものも少なくない。

私は本誌を、本当に先生がたの血となり肉となる、つまりつかみどころのある内容たらしめて行きたい。そうでなければ、ただ机上に積んで置くか、職員室の閲覧棚に飾りたてる品物の一つぐらいに落ち込むだろうと恐れるものである。どうか職場の先生がたも執筆に協力されて、お互いの心のよりどころたらしめていただくよう、期待とお願いを述べておきたい。

 

 

 


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