教育福島0010号(1976年(S51)04月)-005page
巻頭言
「指導」ということ
福島県教育委員会委員長 山崎 忠兵衛
四月になると、新しいランドセルや制服姿の新入生の通学風景に接し、すがすがしい気持ちになり、ほほえみをもって見守っている。
学校においても、新学期の通学指導や学習指導については、全校をあげて努力されていることと思う。その御労苦に対し、心から感謝申し上げたい。
こうした地道な指導が、計画的に着実になされてこそ、児童生徒の健全な育成が図られるものと信じている。
特に新入生担任の先生方の指導の御努力が察せられる。
さて、新学期によせて、「指導」ということについて少し考えてみたい。
新入生の、通学の安全指導については、教室での理解の上に更に現場に児童を引率し、具体的に歩行させ、横断歩道では左右の安全確認の仕方を教え実践させ、信号によって手をあげて着実に横断をさせている。
こうした訓練は、児童生徒の能力となり、態度となるまで何日も続くであろう。このことは一見平凡に見えるがふりかえって考えてみると、このへんになにかしら「指導」の原点があるようにも思われる。
そのような観点から学習の指導にも目を転じてみよう。
学習の指導においても、この指導の原点は生きて働くものと思われる。
教材の内容の中には、発達段階に応じた適時性の指導もあろう。学ぶべき時に確実に身につけて能力としていかなければ将来困ることもおきよう。
いま、学習内容の過密化が叫ばれ、「見切り発車」とか「積み残し」とかもいわれ、授業についていけない児童生徒も多くでていることもマスコミなどで取り上げられている。
ここで考えてみたいのは、教室の授業で「指導」したと思っている事がらでも、実は単なる「注意」の範囲を出ていない場合もあろう。
交通安全の指導についても、教室において「注意しなさい」・「ルールを守りなさい」・「安全に気をつけて通りなさい」という「注意」だけにとどまったらどうだろう。
幼稚園や小学校の先生方の交通安全指導に対する特徴的なことは、教室における理解のほかに、具体的に確認の方法や通行の方法など、学習方法や訓練が含まれ、個人の能力や態度となるまで行われるということであろう。指導とはそのようなものかと思う。
学習の指導においても、効果をあげるためには、まず学習の方法をよく教え、訓練することと、理解した内容や方法を能力となるまで徹底する必要があるのではなかろうか。
私は、理解力やひらめきの鋭くないゆっくり型の子供の親として、特に基礎的なものについては、初めに徹底した御指導を、まことに御苦労様ながら懇請してやまないものである。