教育福島0014号(1976年(S51)09月)-005page
巻頭言
人を見るものさし
福島県小学校長会会長 古関富男
ミカイル・サドラー(マンチェスター大学教授)というイギリス人が、主要な欧米諸国民の人物評価の指標について、おもしろい述べ方をしているということを、国立教育研究所長の平塚益徳氏の講演の中で聞いたことがある。
ある人間について、それはどんな人であるかを問う時に、次の各国民は、どんな聞き方をするかというと、
○イギリス人は、「彼はどういう人物(人がら)か。」
〇ドイツ人は、「彼は何を知っているか。」
〇フランス人は、「彼はどんな資格を持っているか。」
〇アメリカ人は、「彼は何ができるか。」
というように聞くと、まとめているというのである。
もちろん、これは概括的な、しかも象徴的表現であるから、これをもって一概にそれぞれの国民の人物評価の指標を、決定づけることはできないであろう。しかし、興味のある見方であると思っていたせいか、先年、欧米の教育事情を視察させていただいた時、ソ連での一週間の学校参観を終わった後に、ふっと、このことを思い出したのである。
もし、サドラー氏が、同じ筆法で、ソ連国民の人物評価の指標をまとめたとしたら、どうなるだろうかということである。私の短期間の視察と乏しい観察力では、とうてい当を得た表現にはならないが、さしづめ、「彼は国や社会のためにいかに働いているか」ということにでもなるのではないかと考えたのであった。
さらに、思いはわが国に及んで、サドラー流に日本人のことを考えたらどうなるだろうかということである。しかし、いざまとめて見ようとするとためらわざるを得なかった。
「彼はいかに経済的に豊かであるか」というようでもあり、「彼はどんな学歴を持っているか」ということも多いのではないかと思った。しかし、これでは少々風格に乏しいから、前に掲げ諸国民の中で、近いものを探すとすると、ドイツ人に似ているかな、と考えたりもした。
いずれにしても、その国や社会が、どのような人間を望ましいものとして評価しているかは、その国や国民の将来とも深いかかわりを持つだけに、見逃すことはできない。
そのような評価の基準は、その国や社会の長い歴史の中で育つものではあるが、教育佳また、その国や社会の将来の発展を見通して、望ましい評価の基準となるものを探り、掲げて、それを青少年の中に培って行く使命をになっているというべきである。日常の教育実践とも結びつけて、じゅうぶん考えて見たいことである。