教育福島0014号(1976年(S51)09月)-031page

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教育随想

 

心身の鍛練をめざして

根本 栄信

中で、次の世代を担う子弟を教育することのむずかしさを日々痛感させられる。

 

教職経験二十年目を迎え、激動する社会の中で、次の世代を担う子弟を教育することのむずかしさを日々痛感させられる。

児童をとりまく社会環境の児童への影響力は極めて大きく、それは時として、わたしたちの目ざす教育の目標に逆行する。それがまた、「現代っ子」と呼ばれる要素の一つになって表われてきているようにも思われる。

わたしが現在の学校に赴任して来てから四年目を迎える。はじめに感じたことは、本校の子供たちは明るく、素直である反面、現代っ子に共通な「ねばり」「根性」「体力」の面での欠陥であった。それらは学習の上にも、集団行動の上にも、またあらゆる生活場面にマイナスな点となって表われてきているように感じられた。苦しいこと、いやなことはできるだけ避け、安易な道へ逃れようとするのは誰しも同じことかも知れないが、わたしたちが育った時代と違って、家庭でも、子供たちの働く場は少なく、苦痛に耐えながら、なにかをやり遂げるような場はほとんど見当たらないように思われる。こうした点に考えをおくとき、いわゆる「現代っ子」の心身の鍛練を図る場は体育を除いて他にないように感じられる。

わたしが現在担任しているのは六年生であるが、五年生の二学期から、毎朝、柔軟体操とリレーを継続して指導して来た。口はばったい言いかたかも知れないが、走ることを通して彼らの体質を改善していきたいと考えたからである。その結果として、今までより少しでも速く走れるようになるとすれば、それは望外の喜びではあるが、一つのことをやり通すことによって、他の面にもよい結果をもたらすであろうという仮説に立ち、学年経営の一端として全児童を対象として指導を重ねて来た。

学校側のよき理解と同学年担任の一致協力によって、雨の日は体育館で彼らの持つ学級意識をうまく利用しながら一日も欠かすことなく継続することができた。はじめは校庭なら三周、体育館なら五、六周も走ると音をあげるしまつで、泣き出してしまう肥満児さえいた。その度に、わたしはあらゆる例をあげ自分と闘うこと、苦しみをのり越えることのたいせつさを話して聞かせ、がんばり通そうとする意欲を育てようと努力した。そんな子が今では体育館を三十周以上走り続けてもなお平気である。

冬休み中の練習でも、寒風の吹き荒れる中、半袖、ショートパンツ姿で走る子供たちも多く目につくようになって来た。

また、四年生まで、病弱のため、一度も体育の授業に参加したことのなかった子供が一日も休むことなく、しかも誰よりも早く参加するようになった。こうした子供たちの姿に、むしろわたしの方が勇気づけられる思いである。

一つの壁を乗り越えることができたとき、それは「自信」となって彼らの上にはね返ってくるようである。

練習が終わったとき、今日の努力をほめながら、すかさず彼らの日常生活の様子にメスを入れる。こんなときの方が彼らの心には大きな響きを持つようである。今ここで、成果を口にすることは早計に過ぎると思われるが、朝会などの集会時に倒れる子供がほとんど無くなって来たこと、集団行動に機敏さが加わって来たこと、児童活動に自主性が増して来たことは一つの成果とも考えられる。

また、地域の人々の関心も高まり、スポーツ少年団の活動の盛り上がりにもよい影響を与えているようにも思われる。児童の生活態度にまで変容を求めるのは無理なことかも知れないが、思いやり、協力性、継続性、自主性をも引きあげていきたいと願っている。

「指導」それはわたしにとって、子供たちとの「根くらべ」でもある。

「継続は力なり」という言葉が、実感として受けとめられるようこれからも子供たちとの「根くらべ」を続けて行きたい。

 

(いわき市立好間第一小学校教諭)

 

 


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