教育福島0014号(1976年(S51)09月)-030page
教育随想
連想
星 左右衛
私の家は舘岩中学校のすぐ隣にある。若いころ大きな声で夫婦けんかをしたらあとで先生から「学校へ聞こえたぞ」と言われてこりごりしたものである。だからいつもは生徒たちの明るい笑い声などが聞こえてきて、とてもにぎやかなのであるが、日曜日などになるとヒッソリ閑としてなんとなくつれづれである。
それが、今日は夏休み中の日曜日だというのに、校舎の窓から大勢の生徒の姿が見えるではないか。それも、いつものようなにぎやかさが感じられない。なんだろうと思って窓から顔を出した生徒に声をかけてみたら「テストだよー。」という答えがはねかえってきた。
私は「あ、そうだ。二学期中には三年生の進路もきまるんだなあ。」と思い先生も生徒もたいへんなんだなあと思った。それに親の方はもっとたいへんだろう。なにしろ、うちの村からは通学できる高校がないんだから。子供を高校へ出すとなれば下宿させるよりほかにはない。
そう言えばついさっき「お盆休みで明日帰るから。」と元気な声で電話をよこした、今は東京にいる長女を若松の高校へ出したころのことが思い出される。もう勤めてから四年目だから入学したのは石油ショックよりずっと前だが、それでも入学の時十万円ぐらいかかったようにおぼえている。そのころの下宿代は一万五千円ぐらいだったが月に二万円では足りなかったように思う。月給の半分近くを高校学資に出したのだから年中ピーピーしていたものだった。それにお金さえ送ればよいというものではない。子供は結構まじめにやってくれたようだが、そこは親馬鹿子畜生のたとえのとおり悪い遊びなど覚えなければよいがとか、交通事故に会わなければよいがとか、なにかにつけて心配が絶えないものだった。
昭和四十七年十月教育長に就任して間もなく中学校の武藤雄一郎校長(現新郷小校長)さんから、是非、高校奨学資金制度を作ってくれと強力に進言されたっけ。そのころの進学率は三〇%前後で残りの卒業生はほとんど全部就職して高度経済成長政策要員として京浜方面に行ったものである。なかには高校だけは出ないとだめだと働きながらお金をためて自力で若松の高校へ行った者などもあって武藤校長さんのお話はもっともなことであった。私もかけ出しでなんの予備知識もなかったので校長さんの案を骨子にして、もっぱら下郷町の星留芳教育長さんのアドバイスをうけて、とにもかくにもその年の卒業生から適用するように今の奨学資金制度を発足させた。なにしろ下宿費がかかるのだからほかの町村のように一律定額というわけにはいかないので平均下宿費を最高限度額とし、家庭の事情を勘案して貸出額を決定する事にしたのだが、おかげで私は税務署なみに出願家庭のふところ具合を査定しなければならないはめになってしまった。
そんなわけで今年は月額最高二万円まで貸出しており進学率もやっと七〇%近くとなったが、それでも全国低位といわれる県の水準までもっていくのは容易でない。今年の進学希望者は九〇%だそうだが、今日テストを受けている生徒を進学させるには村営で高校バスを出すよりほかによい方法はない。
それにしても国にもっと対策を講じてほしいものだ。せんだって陸運事務所の田村輸送課長さんにお会いしたら会津バス路線とのかねあいがあるとのことだったし、財政の方に話をすればバス購入については補助金どころか起債もないとのこと。せめて起債ぐらいつけてもらえるような制度を講じてもらいたいものだとつくづく思う。
補助金で思い出したが、教員宿舎に車庫が認められないのも時代遅れだと思う。もうこれからは車をもたないへき地の先生など考えられない。豪雪地帯ぐらい堂々と車庫付き住宅を認めてもらいたいものだ。しかたがないから村単で車庫付きの住宅を作ることにしたが貧乏財政の村にとってはなんとかしてもらいたい事の一つだ。
テストも、もう終わったらしく中学校もひっそりしている。そうだ、私もがんばらなくちゃ。来年は高校バスを実現してみんな進学させるのだ……。
(舘岩村教育委員会教育長)