教育福島0015号(1976年(S51)10月)-005page

[検索] [目次] [PDF] [前] [次]

巻頭言

 

正義と教育

 

正義と教育

福島大学長 渡辺 源次郎

 

もう二十年近く“昔”のことになるであろうか。うちの子供たちが、しばしば「月光仮面だ」などと叫びながら、風呂敷を肩になびかせつつ(?)、踏み台から跳び降りたりしていた。子供は正義が好きらしい。というより、正義に本能的にひかれるらしい。しかも子供の場合、正しい人が同時に強くあれという、子供らしい願いが加わるのが常だが。

もっともそういうことは、子供の世界特有の事象だとばかりはいえない。現に私なども、夕食後、横になりながら「水戸光門」などを見るともなしに見ているしだい。この番組、視聴率が案外高いのだそうだ。見ているのは大人だから、いささか鼻につくのを感じつつ、「控えおろう。この紋所が目にはいらぬか」で大団円になる筋は承知のうえなのだから罪はない。

ところで、いま、こんなことを考える。子供はもちろん、大人さえ、ニュアンスの差はあれ正義を愛する。それなのに、いまの日本で最大の問題になっている、あのロッキード事件、さらには福島版ロッキードなどといわれる事件が、どうして起きる(あるいは起こさせる)ことになるのだろうか。

金権政治。右の事象の実体は、一言でいえばそうであろう。一方に、金で利権を得、さらにそれで金をつかむ人がいることを前提にしつつ、他方に、権力で金を得、さらにそれで権力を大にする人たちが政治を牛耳る。−この事実、それへの批判が、まだるっこい選挙による改革などナンセンス、と叫ぶ過激派を生み出す一つの大きな根拠になっていることを、私は身にしみて感じてもいる。

いま、政治・経済機構の難しい分析などするつもりはない。ただ、そういう行為が、結局は選挙(=民主政治)の結果に支えられて跋扈しているとすれば、さしあたり、一般「教育者」はどう考えたらよいのであろうか。若い国民を次々に生み育てている小・中・高・大学すべてを含めて、われわれ「教育者」にも、もし責任の一部があるとするならば、われわれはどうすべきなのか。

ここで、特に目新しいことを提案するつもりもない。ただ、こんなことを考える。子供は成長するにしたがって、世は正義だけでは貫けないものだと知るようになる。そのとき、年齢や知能の程度、四囲の状況等に応じて教え方が変わらねばならぬだろう。そのさい、例えば、利己という人の性を単に悪しきものとして退けたり、利己心と無関係に正義を教えるのは、実り多くはないであろう。むしろ、自己の利を求める人間の性のたしかな存在を前提にしたうえで、その自利の追求が、公を私すること(または私させること)にならぬか、あるいはつながらぬかと、時おり心に問うような人間に育てることに、積極的に関心を注いではどうであろうか。

 

 

 


[検索] [目次] [PDF] [前] [次]

掲載情報の著作権は情報提供者及び福島県教育委員会に帰属します。