教育福島0017号(1976年(S51)12月)-024page

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教育随想

 

この子らと学ぶ

渋谷 朗

、お元気ですか。わたしも元気です。……夏は、川入に遊びにきてください。」

 

「先生、お元気ですか。わたしも元気です。……夏は、川入に遊びにきてください。」

ふと、目に留まった二枚のはがき。かつて、初めて受け持った山の一年生からの便りである。幾度か書き直したのだろう、そちこち黒くこすれている。“あの子たちが……”と私は思う。自分の名まえはもちろん、五十音の一字も読めなかった二人であった。漢字もたくさん使っているな。文章もよくまとまっているな。しかし、よく見ると、私の字形に実によく似ていて苦笑と同時におそろしい気がした。入学式当日、ひざの上にそろえた手をにぎりしめて、じっと私を見つめていたすきとおるようなひとみが脳りをかすめる。

「慶徳峠」−喜多方市から山都町にぬける途中にあるこの峠を私が初めてどおったのは、昭和四十九年四月一日赴任地、山都第三小学校川入分校に向かうときであった。峠から見えた飯豊の山並み、ひときわ高く青空にはえる純白のはだとくっきりとうかぶりょう線、会津の霊峰、飯豊のその山ふところに抱かれた川入の里に、私を先生として待っているであろう子供たちを思い浮かべては、胸の高ぶりを覚えたことであった。

赴任の年は豪雪で、『川入の部落は陸の孤島』と報じられたその春であった。一の木の本校より約十キロメートルの道のり、ブルドーザーでかいた雪壁の間を車で行けるところまで送ってもらい、その先は、迎えに降りて来てくれた先輩と父兄の背中を必死で追って歩いた雪道の三時間。肩にくいこむリュック、みぞれまじりの雪ですぐ見えなくなってしまうめがね、ひと休みのたびに口にほうり込んだ雪の冷たさ、足を踏みはずすと腰までうまってしまう積雪の深さ、すべて初めての経験であった。しかし、苦闘の末にたどりついた分校の、すっぽりと雪の下にうずもれた校舎、三つ並んだ小さな机、そして、迎えてくれた里の人々の温かい笑顔。私は、この感激を一生忘れることはないだろう。

春先のかた雪わたり、夏の魚取り、秋のナメコ、そして一面白銀の世界と化す冬の季節、この変化に富んだ川入の四季は、すばらしい自然環境として私たちを包んでくれた。春先、とてもかんじる朝などは、雪がこおって歩くとザック・ザックと音がする。春の芽を捜してあちこちと歩きまわり、疲れれば分校のそばを流れる一ノ戸川に吹く風にあわせてみんなで歌う。理科の授業はかじか取り、そして詩を書き、作文を書く。放課後は学校で栽培しているナメコの一つ一つの軸を取る。手を真っ赤にして水洗いをしている子供たち一粒のナメコをたいせつに、一年生から六年生までが、分担してみんなで働いている。きっと教師がことばで言い切れないなにかを子供たちは、じかに体得していくのだろう。

私は思うのだが、その土地・土地に見いだせる感動の中からも、多くの学習課題がつくりあげられ、児童の思考を呼び起こすのではないだろうか。特に分校のように山間部で経験領域の狭さを指摘されるとき、教師はより多くの地域の特色に目を向ける必要があると思う。

今、私は第二の任地で一、二年複式学級十名の子供たちと学んでいるが、風土の違いこそあれ思いは同じである。一年生N子は、おばあちゃん子、K子は、甘えん坊、そして……次々に十人の子供たちの顔が、なにかを話しかけようとしている目が、思い浮かぶ。朝、私が教室に入っていくと、必ずだれかが話しかけてくる。そうするとせきを切ったようにみんなが私めがけて話しだす。そんな子供たちの話に「ウン、ウン」と答えてやることが、私の一日の始まりである。また、時折子供がうっすら涙を浮かべることがある。私は、あと一歩で“できる”と判断したなら、しった激励し妥協を許さない。「先生、教えてください」そんな子が休み時間ひょっこり職員室に顔をだす。きびしさと温かさの使い分け、私がいつも心に念ずることである。−私は子供たちとともに学んでいく。もう決してもどってこない日々に、なにか一つでも血となり肉となる足跡を残してやるために。

 

(福島市大波小学校上染屋分校教諭)

 

 

 


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