教育福島0017号(1976年(S51)12月)-025page
教育随想
空の青さ
小野ミコ
すき間風が冷たい北風を運んでくる。例年であるとすみきった青空の下にこだまする児童たちの歓声も、今年は、心なしか寒々と聞こえてくる十月の中旬、校内写生大会が開かれた。それでも今年は天候不順を考慮に入れて、昨年より一週間も早めての実施である。
二年生の題材は“いちようの木”、これは校庭の一ぐうにある“大木”で八十年から経過していると伝えられている。
「みなさんのおじいさん、おばあさん、その前のおじいさん、おばあさん、そしてお父さん、お母さんがみんなこのいちょうを見て育ったんだよ。」
「さあ、さわってごらん。ほら、こんなにかたい皮だよ。」
「先生ごつごつしている。」
「いぼいぼがあるよ。」
「あ、いちょうの実もなっている。」
児童とのこんなやりとりのうちに、T先生、M先生とチームを組み、少し鉛色がかった天候の恵まれない条件のもとで、写生大会の指導に当たった。
丁先生が中心指導、若いM先生と私は巡回指導。「さあ、よく見るんだよ、空まで突きでているよ。太い幹の木の膚は、枝は、葉っぱは。」九十二人の瞳はくいいるように“いちょう”の大木と紙面の間を交差している。
年に一度の写生大会。作品の可否のみで評価することは早計であるにしても、年間図工指導における『集大成』として、願わくばすべての児童に今までで一番良い作品を生んでほしい。そう願う心の中にまっ先に浮かんできたのはA子のことだった。私は四、五人の児童を飛びこえてA子の背中にまわった。
「うわあ、すごい。空を突き上げているよ。葉っぱもよく見てじょうずに描いてね。この分だと大成功よ」と話しかけた。A子は満足そうなまなざしで「こっくり」とうなずいた。
授業中は注意散漫で根気がなく、自分勝手なことをしたりして、基本的な学習態度が身についていないA子だったが、昨年の写生大会から、めきめき腕を上げ、たくましく強そうな牛を描きあげて、みんなをびっくりさせたっけ。
思えばあれから一年、A子は絵に自信をもち、図画では抜群の作品を創り出している。
全児童に今までにない良い作品を描いてほしい気持ちでいっぱいだが、更にA子も去年と同じく立派な作品を描き上げてほしい。私はそう願わずにはいられなかった。なぜなら、そのことによってA子の教科指導の面で、必ず生きてはたらくなにかが期待できるのではないかと信じていたからである。
永い教師生活の中で、この子らとの出会いは、ほんの短いものであろう。この短い出会いの中で、一人一人の子供を大事に生かしていきたい。そんな願いでいっぱいである。
夫や娘たちも同職、そんなわけで夕げを囲んで、教育の悩みなどについての討論がしばしば続けられる昨今であるが、時として理論的には、夫や娘にやりこめられることも少なくない。
そんな時には、いつもきまって自分の研究の浅さをなげくのであるが、胸の中では、無我夢中で全力投球してきた自分の三十年の教育活動を自負する気持ちもある。
いずれにせよ、新旧の先生が、限られた学級を力の限りをつくして、教育活動に専念する経営組織体こそ、現在最も必要とされているのではないだろうか。
A子の作品は、八、九分どおり完成に近づいている。空を突きぬくような大胆なタッチ、太い幹や固い皮、一枚一枚せんさいに描き上げている。二年目の作品である。
友達との比較は別として、この子の心情をつかみとり、その一枚の絵の空の青さから、この子の可能性がひき出せるものなら、まさに教師みょうりにつきるものと考えている。
(浅川町立浅川小学校教諭)