教育福島0020号(1977年(S52)04月)-040page

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図書館コーナー

雑誌「武蔵野」復刻資料に拾う

資料紹介1)

 

ここ十数年、復刻される資料が少なくないが、そのなかから、逐次刊行物の「武蔵(さし)野」を取りあげてみよう。

昭和四十六年に、原書房から「武蔵野」が復刻された。武蔵野といえば国木田独歩の作品が連想されるが、現在の東京にはその面影はしのぶべくもない。ところで、この雑誌は大正七年から、昭和十九年まで、鳥居龍蔵氏の編集により、武蔵野会より発行されたものである。鳥居氏は考古学・人類学者として著名であり、その足跡は、沖縄、朝鮮、西南アジア、南アメリカ等海外に及んでいる。

 

「武蔵野」創刊号(復刻版)表紙

 

氏が、「本会(武蔵野会)の設立と雑誌発行の趣意」と題して一文を寄せている。

 

創刊号の巻頭で鳥居氏が、「本会(武蔵野会)の設立と雑誌発行の趣意」と題して一文を寄せている。

「本会の目的は、専(もっ)ぱら武蔵野に於ける自然と人文とを学び、また武蔵野に於ける趣味を養はんとする…」と述べている。

創刊号の目次を拾ってみると、次のような研究・随想等がある。

「武蔵野国分寺遺跡考」沼田頼輔)=武蔵野国分寺は大安寺形式によるものであり、礎石の概測から全国の国分寺中最も大なるものであること、また国分寺の瓦(かわら)に郡名の文字あるものは武蔵および下野国分寺である。

「芝公園古墳発見二個の埴(はに)輪土偶(ぐう)」(鳥居龍蔵)=東京の高台に残る奈良朝以前の古墳のなかで、最も注意すべきものは、芝公園のそれである。ここ

「武蔵野に於ける先住民の遣跡」(大野雲外)=武蔵野の遺跡分布は八百二十六箇所におよぶ。当時においても遺跡が消滅して、また遺跡となるものが多い。ローム層の第二層の赤褐色の部分には、遺物を包含しないこと。(これについては戦後あらたな発見がなされている。)

「武蔵野の風色」(小田内通敏)=十月が半ば過ぎて武蔵野特有の林相ともいうべき檪(くぬぎ)林や、宅地まわりの欅の屋敷林が、悉(ことごと)く落葉し骨立して灰色の疎林となった時に、澄(す)み切った秋の大空を此疎林の間から仰ぐ時、余は何時(いつ)でも東京から二、三里より離れた村にあるという事を忘れると武蔵野の秋を述べる。

「武蔵野の花」(井下清)=武蔵野の春を最も力強く彩るものとして桜-玉川上水小金井の桜並木について述べる。また武蔵野が上古の密林から、焼き払われ、伐りつくされ、堀りおこされて、しだいにすすき野となり、悲しみの野となりしこと。

「女絵師の見た武蔵野の版画」(吉田優子)=江戸版画の中で武蔵野の名所を題材としたものから、その野趣野情を紹介したものとして、松涛軒長秋の編集になる江戸名所図絵のさし絵をとりあげている。

「江戸時代の名木」(本間鶴水)=江戸十八松涛等について記す。

「武蔵野の旅=研究旅行」(山岡超舟)=会員の研究旅行として、天神山の古墳、国府旧跡、武蔵国分寺、高麗村、川越をおとなうの記。

この「武蔵野とは昭和十九年をもって廃刊せざるをえなかった。当時は大東亜戦争の後半に入り、資源不足のため、あらゆるものに統制がくわえられた。

昭和十九年一月の総会の通知に「会費二円(米一合、木炭二、三片。 必ず御持参のこと)警戒警報発令の場合は中止」とあるのも世相であろう。

逐次刊行物=雑誌類を継続して刊行するというのは、容易ならぬ事業である。この「武蔵野」の3号にも、3号まで刊行できたのを喜んで記してあるが、「武蔵野」は、四半世紀の長きにわたり刊行されたのである。ただこのような逐次刊行物は、バックナンバーは勿論、資料として重要なものだが、散逸しやすく、後になっては容易に入手し難い。このような点からも、これを復刻するのは、大いに意義の深いものである。

 

 

 


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