教育福島0022号(1977年(S52)07月)-024page

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教育随想

 

家庭訪問を終えて

氏家瑞江

 

折しも、降りはじめた霧雨にけむって道々の眺めは茫漠(ぼうばく)としている。

 

Y男の家は、温泉街を抜け、開拓地に入ってからも、しばらく車を走らせた所にやっとあった。初めての私には方角の見当もつきかねる所だ。ほかには人家らしいものはまるで見当たらない。折しも、降りはじめた霧雨にけむって道々の眺めは茫漠(ぼうばく)としている。

家の近くで車を降りると、瞬時に、Y男の家だとうなずける。家業の養豚のにおいと豚舎から流れる汚水と、折からの小雨とでぬかる足もとを気にしながら、玄関口とおぼしき所で声をかける。返事もないし、人の気配もない。豚舎の入り口で大声をあげる。声が届いたとみえて、しばらくしてから、おじいさんが見えられた。彼の保護者である。(昨年まで、彼は、この祖父と二人で学校よりも手伝う方が主なような生活を送っていた。)用向きを話すと、ていねいな態度で聞いてくれた。「あまり、休みや早退が多いので、彼は学校で、正常な生活や活動ができないでいる。これでは持っている力を伸ばす前に、劣等感ばかり育ててしまい、彼をだめにしてしまうだろうから、学校にだけはきちんとよこしてもらえまいか。」-「わかった。」という。

後日、二度ほど、「家でつくったものだから」と言って椎茸(しいたけ)を届けてくれた。

二年生になってから、彼は、ほとんど休むことがなくなった。

K男の家では、おばあさんが出迎えてくれた。話によると、K男が二つの時に、母と生別しているという。以来彼と兄の二人兄弟は、その祖母を母のようにして、父と祖父との五人で暮らしてきたという。その祖父が、一年ほど前に患い初め、入院を続けている。病が重くて、おばあさんは病人から離れることができなくなってしまった。家との行き来を考えて、近くの病院に転院させてはみたが、それでも、帰って子供たちの世話をするなど、思いもよらなくなってしまったという。

今までは、一番気がかりだったK男が、おばあさんの朝と昼の食事を弁当にして、毎朝、必ず届けるのだそうだ。夕方は、学校の帰りに病院に寄り、空になった弁当箱を受け取ると、夕食を何か、また届けに来るという。「もう一年近くも毎日なんだぞい。」と話す。「学校の勉強は、きっとだめだと思うんだけど、いっしょに暮らしていると、気性の一筋通ったところのある子でない。それがかわいいくってない。」と話すおばあさんの様子は、実に思いあふれるものが感じられるのであった。

学校では常に静かで、存在さえも忘れられそうなK男の、私には全く知らない一面であった。

今、私の学級には三十四名の生徒がいる。ということは、私の学級の陰には、三十四の家庭があるということである。その家庭とは、実に多様であると思う。しかも、物心ついてからわずか十年足らずの中学生にとって、この家庭の持つ意味は、はかり知れないものがあるであろう。うっ積した心をぶちまけられる家庭を持つ子は、幸せだと思う。Y男は、そんな時、自分の心をどう処理するのだろう。K男は、精神的にも、時間的にも、肉体的にも過重な現状を、どんな思いでこらえているのだろう。そんな生徒の心に、満ち足りた何かを与えられるものが、もし学校の中にあるとすれば、それはいったい何だろう。心が練り上げられ、すがすがしく、雄々しい力をもし育てることができるとしたら、教科指導に勝るとも劣らない本当の教育ではないだろうか。

ことしは、とりわけ考えることの多かった家庭訪問であった。

(二本松市立岳下中学校教諭)

 

Y男もK男も元気に学習

Y男もK男も元気に学習

 

 

 


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