教育福島0023号(1977年(S52)08月)-005page
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巻頭言
子供がいて先生がいる
福島県中学校長会会長 三瓶芳徳
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○はじめに
毎年新学期が近くなると、本県のように過疎県では、きまって、辺地の学校の廃校のニュースが寂しく伝えられます。本年度も、金山町の玉梨小、大塩小、また双葉広野中の箒平分校等が統合のため廃校になりました。そのたびごとに考えさせられることがあります。
「子供がいて、学校があって、先生がいるんだ」…
ということを。
○教師の根本的な考え方
私は教師であるものの考え方の原点は、ここにあるのではないかと思っています。指導面も管理面も、子供が存在してはじめて成り立つものと思います。私たち教師、学校関係の職員はこのことを銘記したいと思います。
○私たちの反省
私は、以前に県の音研に関係していたことがあります。その時、A市在職B教師の一年生の授業を参観したことがあります。
授業がはじまって間もなく、
「○○さん顔色悪いね、だいじょうぶ?」
「ウン。」
「○○君、本忘れたの?…」
「…」
ベビーオルガンを教室のまん前に出して子供から絶対目を離しません。一人一人の子供の動きを全部見ながら、次々と授業を進めていきます。まさに子供がいて、先生がいるすばらしい授業でした。
また、C市の学校公開でのD先生の授業です。型のごとくピアノの礼で始まりました。「みましょう授業」です。前に相当練習したと思われる三拍子のドリルです。
「こちらの組が強いところ、そちらの組が弱いところを打つのですよ、さあ、やってみましょう。」
先生はピアノの楽譜ばかりみているのです。同じこと何回もやっているうちに子供は飽きてしまいました。何やら誰かが気分が悪くなったらしい。白い記章を着けた別な先生が(同校の隣組の先生)そっとその子を保健室に連れていきました。D先生は、何知らぬ顔で授業を続けました。
私も毎週月曜日の朝会に、生徒の前に立ちます。あまり勧善懲悪ではおもしろくないと思い、なるだけ生徒の関心の深いもの、新鮮味のあるものと心して話しているつもりですが、過日、朝会が終わるとすぐ、三年のクラスに行って校長が何話したかきいてみてびっくり、六人しか手が挙がらなかったのです。つくづく考えました。
これで「生徒がいて、学校があって校長がいるのか」…と。
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