教育福島0024号(1977年(S52)09月)-005page

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巻頭言

 

教師と言葉

 

福島大学経済学部長 三宅晧士

 

術たる「喋ること」については、ほとんど考慮を払ってはいないごとくである。

 

私は、すべからく教師たるものは「寄席」に通うべきだ、ということを持論としている。教師にとっては、「喋(しゃべ)ること」がその商売道具である。しかし、たいがいの教師は、この道具をみがこうともしない。職人は、いかにすぐれた腕をもっていても、その道具がだめならよい仕事ができないことを承知しているから、道具を得心のいくまで整備する。それに対して、教師は、すぐれた豊富な知識さえもっていれば、それだけで満足し、その知識の伝達技術たる「喋ること」については、ほとんど考慮を払ってはいないごとくである。

いわゆる噺家(はなしか)や講釈師は、話術の研さんに寝食を忘れる。間の取り方一つにも推こうを重ね、そこから名人と称せられる人々が誕生してくる。教師はすべて、観念的には、教育におけるコミュニケーションの重要性を認識しているものの、喋ることのうまさ、すなわち、効果的な伝達の手法については今更研究を必要とするとは、その多くが意識していない。教師たる者は、生徒の集中力の欠如や学力の低下を嘆く前に、寄席の観客がなぜ噺の世界に惹(ひ)き入れられ、笑い転げるのかを、噺家を師匠にして勉強すべきではないか。

言語、すなわち言葉は、それが喋る「話し言葉」であれ、文字で表現される「書き言葉」であれ、話し手と聞き手との間に共通の理解が成立しうる、社会的に約束された一種の記号である。それは伝達の手段であり、原理的には交通信号と変わるところはない。話し手たる教師は、まず第一に、自己の脳りにある教育すべき内容を、言葉という記号に正確に記号化し、これを聞き手たる生徒に伝達することが要求される。更に、この正確な記号が聞き手によりじゅうぶんに理解されうるものでなければならないことも、また言をまたない。

しかし、聞き手にとってまったく関心のない記号は、受け入れられることはない。ことに、現代のごとき情報過多の時代にはなおさらである。しかも教育の場において伝達される内容は、寄席の小咄(こばなし)とははるかに隔たりのある聞き手にとってはあまり興味をもちえないことが、ある場合には拒否反応を起こしうることが、じゅうぶんに予想される教材である。

そこで教師に強く要求されるものはすぐれた表現能力であり、巧みな話術である。たとえ無味乾燥な素材であっても、話し方いかんによっては、それがすばらしい躍動美をみせることになる。私は、教育もコミュニケーションの場における一つの技術であると思う。しかも、この技術は会話能力いかんにより大きく規制される。われわれ教師は、自分の使用する言葉について、つねに検討を繰り返すべきであろう。教師にとっては、自分の話のなかで、聞き手が眼を輝かせ、耳をそばだてるのを目の当たりにみるとき、教師としてのえも言われぬ充実感・幸福感を感じるのである。

 

 

 


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