教育福島0026号(1977年(S52)11月)-005page

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巻頭言

 

理を求め理をたいせつにする心

 

理を求め理をたいせつにする心

 

福島大学教育学部附属小学校長 小山侃

 

日々報道される道義的問題をはらむ事件は、それがいずれの世代にかかわるものであれ、現代の教育的課題と結びつきのないものはない。

「今の若者たちは」という批判は、その若者たちの育った時代の大人たちの責任に対する問い直しとして、自らの反省につながるものでなければならないであろうし、次代をになう子供たちがどのように育つかは、すべて社会環境とその社会を構成している大人の責任である。特にその主導的役割を果たすべき教育者の責任の重さを自覚しなければならないであろう。

人道主義・民主主義・人権尊重の社会において、皮肉にも多くの人の人権と自由が少数の人間の横暴に脅かされている。またこの原則の逆用に対して無防備に近い感を抱かせる。他人の生命を奪う人間の生命もたいせつにあつかわれ、他人の権利の侵害など意に介しない人間の権利もたいせつに護られる。そしてこのことを盾にするかのように、少数の人間の不法や無法が多数の善良な人々をじゅうりんするに似た現実をしばしば見聞させられる。極端な例は少いかも知れないが、かなりの共通性をもった社会的事象は、それほど希有(けう)なものではない。

いまなぜこのような現実が存在するのかをしずかに考えてみる必要がある。反社会性が横暴にふるまえる一つの理由は、多くの場合反社会性をもった主張や行動が、正当な権利やその行使であると確信していることである。他人や他人の権利が眼中にない我利・我欲に基づく要求や主張であっても、強く自己を主張し、自己主張を貫くことは善であると確信している人間が多くみられる。何が、誰が、このような偏見を育てたのであろうか。教師に大きな責任があるように思われてならない。理を求め、理をたいせつにする、根本の心を育てることがおろそかにされた。自由とは何か、権利とは何かを考え、考え続け、探求し続けることをぬきにして、人権を主張し、人権を護ることのたいせつさのみが強調された。そのような教育の所産であるように思われる。もちろんこのような偏見を育てた責任は教育の場のみにあるとは思わない。現実の社会の中で大人たちの行動からしらずしらずのうちに学びとったこともあろうし、社会的風潮の影響を受けて育ったことも否定しない。しかし直接的な教師の教育の責任を謙虚に反省し、分析してみることがたいせつである。また独善性と結びついた偏見も、広く観察される傾向にある。独善性の克服、これも教育のたいせつな課題であろう。

人間教育は信頼・共感・感化を根幹として成立するものであろう。ともに不完全な人間であればこそ共感も成り立つ。たいせつなのは常に理を求め、理をたいせつにする理に敏感な心、理をまげず理に従う一貫した態度、矛盾を探り、矛盾を克服しようとする努力真理の前に平等な謙虚な温かい心、等々であろう。

 

 

 


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