教育福島0028号(1978年(S53)01月)-005page

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巻頭言

 

「三」

 

「三」

福島県教育センター所長 山内正彌

 

今年こそはと、願望と期待をかけて元朝に一年の計をたてるが、三が日の屠蘇(とそ)気分に酔いしれて、せっかくの覚悟が、本阿彌(もくあみ)になってしまう。こんなことを繰り返して、五十数回の新年を迎えてしまったような気がする。はなはだ残念なことであるが、これは私だけではなかろうなどと思うといくらか心も安まってくる。

知人に「三」の好きな人がいた。たいへん縁起をかつぐ人で、選挙の投票日などには早朝から会場に出かけて一番乗りをして投票時刻を待ち、三番目に受けつけてもらって投票を済ませるといった凝りようである。

こんなことから私もこの「三」という数字に関心をもつようになり、いつの間にか物事を「三」にこじつけて考える習慣ができてしまったようである。書には真・行・草の三体がある。華道には心・副・体の役枝がある。また構造力学では三点支持は構造的に安定である。といったように、「三」にまつわる事がらが数えきれないほど多くある。自動車の運転も認識・判断・操作の三部構成で、操縦はこれの繰り返しである。しかもこれらがほとんど同時に作用しない限りは人命にかかわる重大事態につながっているのである。ここではとくに判断ということが重要に思われる。

一は「はじめ」と読まれるが、実際の行動のはじまりはむしろ「三」からのようで、例えば、小川を飛び越えようとするとき「一」でねらいをつけ、「二」で体に調子をつけて「三」で飛び越すことからもそう考えられる。何かの本で、本当の女性はお産(三)からはじまると書いてあったのを記憶しているが、これも同じ論法だったのかも知れない。

そこで、一・二・三について考えてみると、三があるためには必ずその前に一・二がなければならない。つまり「一」は計画、「二」は準備、「三」で行動開始ということになり、このことはあらゆる場面にあてはめられると思うのである。この論法で、子供たちの行動を見ると、一・三があって「二」がない場面が多く、思いつくと直ちに行動に移って失敗する。軽装で登山をして遭難するといった例がある。つまり「二」がないのである。経験ある大人たちの不安は、子供たちが「二」をじゅうぶんは握していないことだと考えられる。最近「短絡的」という言葉が多く用いられているが、「一・三」の直結にもかかわりある言葉とも思われる。

元朝に「一」を思って「三」を期したことが失敗で、少なくともその年は「二」に集中すべきであったことが反省させられる。そして知人が投票場に一番乗りして三番目に投票した意味も改めてわかったような気がするのである。

 

 

 


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