教育福島0030号(1978年(S53)04月)-044page

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福島の文化財

史跡

 

石母田(いしもた)供養石塔

 

(ちせん)はおそらく地元出身の僧と考えられ一山一寧に書を依頼したのだろう。

 

鎌倉時代の名僧一山一寧(いちざんいちねい)の書になるこの供養塔は高さー・八メートルの安山岩の方形の板碑(いたび)である。塔の中央上部に梵(ぼん)字とその下に漢文が刻まれている。文の末尾に「知◆(ちせん)という者が親の菩提(ぼだい)をとむらうためにこの文を草し一山一寧が書いた」とあり徳治三年の銘がある。知◆(ちせん)はおそらく地元出身の僧と考えられ一山一寧に書を依頼したのだろう。

一山(一寧と号す)は一二四七年中国は宋の台州(たいしゅう)に生れた。幼いころより学徳衆にすぐれ、各地を遍歴し高僧の教えを受けた。その後宋から元にかわると世祖フビライは二度にわたる日本征服を企てた。(元寇)次の成宗もまた日本侵略の志をすてず一山を勧降使(かんこうし)として我が国に派遣した。大宰府についた一山は捕えられたがその高い学識によって許され鎌倉の建長寺、円覚寺、浄智寺などに住した。またのち後宇多上皇の崇敬を受け京都南禅寺に移った。

彼の学徳を慕って虎関師錬(こかんしれん)、夢窓疎石(むそうそせき)なども彼の教えをうけた。後世、一山を五山文学の祖と称する。

一山の書といわれる板碑は東北では松島とこの石母田にあるだけである。文の内容は塔婆建立の功徳を述べたもので禅宗の中に密教的思想が加わっており思想史的にもめずらしいものといわれている。福島市瀬上町台厳寺にある古拓本により解読された。文字は典雅で一山の人となりをあらわしている。

〔所在地〕

伊達郡国見町大学石母日宇中ノ内(見学は自由です)

 

 

 


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