教育福島0032号(1978年(S53)07月)-005page

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巻頭言

 

生がい学習と気育

 

いわき短期大学学長 中柴光泰

 

いわき短期大学学長 中柴光泰

 

去る三月、県文化センター館長の平井博氏が亡くなられた。まことに哀悼の情にたえない。氏はオスカー・ワイルド研究の権威であった。氏の名著『オスカー・ワイルドの生涯』は私の愛読書である。一度お訪ねしたこともあるし、何度かお手紙もいただいた。昭和四十三年、私が茨城大学の庄子信氏と共訳で、ワイルドの警句集『虚妄と美のことば』を出したときには、いろいろお世話になった。この本には、ワイルドのおもしろい、いや、私などには耳が痛い、教育についての言葉がいくつかでてくる。その一つに「われわれは教育過剰になりかけているのじゃないかと思う。少なくとも学ぶ能力のない者は、みな教えるほうにまわっている--これがわれわれの教育熱なるものの成れの果てなのだ」。というのがある。私はこれを訳しながら、前世紀の、イギリスの話とは思われなかった。

政治家の古島一雄は若いころ、杉浦重剛のところに習いに行っていたことがある。古島は当時を思い出して、こちらから質問すれば、先生はなんでも親切に教えてくれたが、質問しなければ、先生は先生の勉強をしていたと言っている。私はこの最後のくだりにいたく感銘した。教えるばかりが能ではないのである。

私はこんにちまで五十年近く、教えるほうにまわってきた。これではワイルドに、学ぶ能力がないとされてもいたしかたない。そのくせ、回ぐせのように私は生がい学習を説いてきた。勉強に短期も長期もない。二年が短期ならば四年も短期である。もし勉強に期があるとすれば、無期という期だ。これはなにも、私が短大にいるのでひがんで言っているのではない。私どもの学校が流れをくんでいる徳川の昌平曇の末期に佐藤一斎という有名な学者がいたが、その先生の生がい学習の主張をマネているのだ。幕末の平藩の学者なども、この先生について学んだのである。

ワイルドだって、教えることをすべて否定しているわけではない。ただ、学ぶ能力のない、教えることよりも大事なことがほかにあるというのが彼の本音であろう。

私はこの年になって、教育は、けっきょく励ますことであると気がついてきた。元気をつけること、やる気を起こさせることと、つまり気育がたいせつである。気は勇気の気、根気の気でもある。根源的には天地正大の気であろう。昔から言われている知育・徳育・体育のほかに気育を加える必要を痛感する。

そこで私は、ワイルドの教育観を私なりに補正して、教えながら学ぶこと、教えながら励ますこと、この二つが教育の眼目でなければならないと提言したい。つまり、学ぶことと励ますことが教師のつとめであると言いたいのである。こうなれば、少なくとも教育の過剰だけはさけられる。こんにち、過剰でこまっているのは、貿易収支の黒字ばかりではないのである。

 

 

 


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