教育福島0035号(1978年(S53)10月)-005page

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巻頭言

 

人がらよき師

 

人がらよき師

福島県小学校長会会長 古関富男

 

年度始めの入学式で、学級担任の発表をすると、児童の後に設けた父兄席に、ひそやかなざわめきが起こることがある。校長としてはいささか気になる一瞬である。このささやきから、「うちの子は○○先生の受け持ちでなくてよかった」というような声だけはなくしたいのが私の念願である。

『和俗童子訓』は、今から二百六十余年前に、貝原益軒によって著された本であるが、わが国最初の体系的な教育論書との評価がなされている。その中に「小児に学問をおしゆるに、はじめより、人がらよき師を求むべし。才学ありとも、あしき師に、したがはしむべからず。師は、小児の見ならふ所の手本なればなり」(以下略)とのくだりがある。

江戸時代である当時としては、親は自分の子供の師をみずから探す必要があった。そこで、師を求めるときの心得を述べたのが、この一文であろう。

今日の公教育では、親や児童は教師をみずからの手で直接選ぶことはできない。益軒の述べた心得が、いかに当を得たものであるとしても、現在の親にとっては、実現不可能な空念仏にすぎない。これが実現への道は、教師のすべてがみずからよき師になるよりほかはない。

ところで、人がらよき師となるための根本は、教師が、児童愛に基づく教育への情熱と、常に進歩しようとする求道心とを持つことにあると言い得るのではあるまいか。

幼児教育の父フレーベルの墓碑銘は「いざ来れ、われらの子供たちと生活しよう」であるが、彼のように、子供が好きで、ともに生活することを喜び、しかるがゆえに、この子供たちを健全にはぐくまなければならないとする情熱に燃える教師でありたい。親が望む教師像も、子供をかわいがってくれる先生しかも甘やかすことなく熱心にくふうして導いてくれる先生にあることは、諸調査の結果等でも一致しているところである。

次に求道心についてであるが、ドイツで最初の教師養成学校の校長となったディステルウイッヒは、「進みつつある教師のみ人を教える権利がある。」と厳しく説いている。これは今日強調される、教師としての不断の研修のたいせつさの指摘とあい通ずるものがある。これによって、現在は至らないにしても、一歩一歩高まって行くことができるし、またこのような態度においてこそ、「後姿で導く」という教育の神髄に迫ることも可能になるであろう。

教師に才学のあることは、もちろん望ましく尊重すべきことであるが、それよりもっとたいせつなのが、教師としての人がらのよさであることを述べている先人の言をよく味わいたい。そして、今日の学校教育に寄せる国民の期待の大きさに思いを致すとともに、それにこたえる道は、教師一人一人の奮起にまつところの大きいことを自覚し、みずから励みたいものである。

 

 

 


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