教育福島0036号(1978年(S53)11月)-005page

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巻頭言

 

教育の荒廃

福島県高等学校長協会会長 高橋哲夫

 

嫌悪を覚える。ああ、またはじまったかと、いささかうんざりすることが多い。

 

最近流行の「教育の荒廃」とか「落ちこぼれ」という活字が目に入ると、近ごろ私は生理的な嫌悪を覚える。ああ、またはじまったかと、いささかうんざりすることが多い。

ただの一日も教壇に立ったことのない無責任な評論家あたりが、一知半解な知識をもとに得意になって教育の荒廃を論じると、それを受けて一部の現場教師までが、ヤンヤと手を打って同調したりする。

それは、心の底から荒廃を案じ、悩み、悲しむというよりは、敵をやっつけてりゅういんを下げる、まるで第三者の立場に立って楽しんでいる風にさえきこえる。

この場合、両者に共通しているのは、「教育の荒廃」・「落ちこぼれ」の原因は、あげて国・文部省・教委・学校管理者のなせるわざであり、また学習指導要領であり、カリキュラムと教科書が共犯者であるといった議論が多い。つまり、荒廃と落ちこぼれは、すべて体制側の政治とその権力系統の罪悪であるといわんばかりの主張である。

このような、政治主義に根ざす教育論ばかりが横行する社会は異常ではないのか。私はかねがね教師論を抜きにした教育論は成り立ち得ないと思っている。どのような政治体制であれ、どのような教育機器の使用であれ、どのような教科書であれ、教育というものは最終的には「教師」という人間を媒介として行われるものであるから、教師論こそ、本来教育論の中心テーマであっていいのではないのか。

制度と教育政策のみを、しかも政治的発想によってガアガア論じあってみても、そこから果たしてなにが生まれるのだろうか。私は、なにも教育政策の批判をやめようといっているのではない。ただ、教師論を抜きにした議論は、いくら論じあっても、不毛で、一方的で、せいぜい責任転嫁の結論がオチに終るのではないかと思うのみである。

教育の荒廃という言葉を好んで口にする人々は、また受験地獄という言葉も好きなようである。今やわが国の教育現場は荒廃し、当局のせいで地獄が慢性化し、青少年の不良化は急増し、まことに憂うべき状態にあるという。その責任はすべて教育政策のひずみと管理体制にあって、日本中の児童・生徒はその犠牲者だといわんばかりに騒ぎたてる。そこには、いささかの自省も恥じらいも、力量不足の嘆きもない。ただ悪いのは当局であるとわめくばかりである。

私は、当局の政策を批判するときには、少くともそれと同じ程度に、みずからの側の反省があってもよいのではないかと思う。みずからを点検し、反省し、悩むという真しな態度をもって理想の教師像を追い求め、その「教師論」をふまえて当局に迫る。そうすることで、はじめて「国民の常識」という広汎(はん)な援軍が、いかなる名弁舌にもまして味方になってくれるのではなかろうか。

 

 

 


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