教育福島0037号(1978年(S53)12月)-005page

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巻頭言

 

裸木

郡山女子大学学長 関口富左

 

な大気のなかで、寒月に心奪われるのも極月といわれるこの十二月からである。

 

賑やかだった木々も紅葉の衣裳をぬぎ捨てて、すっかり裸になった。いよいよ冬の季節である。一日一日と目に見えて日が短くなり、やがて冬至を迎える。北風も容赦なく吹きつけ、裸木をゆさぶる。しかし、冷徹な大気のなかで、寒月に心奪われるのも極月といわれるこの十二月からである。

わたしは、冬が好きである。もちろん、春は春の、夏には夏の、秋にも秋の美しさと味わいがあって、好きなのではあるが、身のひきしまる冬の冷たさのなかでのそれは格別である。特に、人間が人間として自己自身をみつめ、己れを省りみるとき、そこには他の季節ではえられぬ実存としての生を覚えるからである。しかし、こんなさし迫った緊迫感とは別に、すっかり葉を落した裸木の姿をみることができる「冬」、というほうが、わたしの自然のこころではある。

櫛の歯を透かしてみるような冬の山をのぞむと、山容と木々が相和して、やさしく慈愛にも似た情景を描いてそこに在る。いかにも山が在る、木が在る、そして共に在るという姿である。夏の鬱蒼とした山は偉丈高でときには恐ろしい。しかし、雪に覆われても、山と木との関係は共存の安定さがある。それは寒さのゆえに一層その感が強いといえるのかもしれない。

冬は欅、楓、桜、梅、はては公孫樹等に至るまで、常盤木を除くすべての木々が裸になって、天と語らい、木々と語らい、木自身を主張しているさまは、美しい。まして、一点の雲もない月夜に、網目のような影を地上に落しているときの裸木は、夢を編みながら大地と語らっている慈母のようでさえある。そんなとき、天を仰いで、月光を透かして見ると、裸木は月さえも枝の編目で包んで、光を載せた慈母観音の御手にもみえる。

十二月もなかばを過ぎると、ときには一夜にして裸木は白の衣裳をまとうこともある。木は、白と黒を縫い合わせた新らしい曲線を描いて、生れ変ったような清浄さでさらに自己を主張する。こんなとき、いつもは目にもとまらなかった細い小枝までも、目覚めたように存在を主張していることを見る。欅には欅の、楓には楓の、桜、梅、公孫樹等にもそれぞれの、木の風格と性格とがあり、他と狎れ合わず、他を犯さず、独自の姿勢を堅持しつつ、幹を中心にしっかと大地に根を据え、天空のなかに直立して、厳しくもまた温く在る。それは畏敬にも似た思いで感歎するのみである。

生きることはむずかしい。十二月を迎えた人間社会は、忙しく容易でない。あれも、これもと心の煩いは繁忙を極める。しかし、心を据えて思いを深めると、それは虚実のなかの虚しさが多い。教育も亦、これに類する煩いのなかで◆いているのではあるまいか。折角の冬を迎えたこの季節、裸木に聴くも一つである。(原文のまま)

 

 

 


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