教育福島0040号(1979年(S54)04月)-005page

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巻頭言

新緑におもう

福島県教育委員会委員角田道子

 

えるような草木の若緑に、私はやすらぎとともに心洗われる思いがいたします。

 

昨今の世情はまことに心せわしくまた驚くばかりの大きな変動が続発していますが四季の移りは変わることなく、今年も、もえるような草木の若緑に、私はやすらぎとともに心洗われる思いがいたします。

幼い子らが、春の若木のようにすくすくと育ちゆく様はかわいさとともにたのもしくもあり、親としての喜びはひとしおでありましょう。この幼子たちにもそれなりの生活があり、その中に芽生えてゆく喜びや苦しみは、年ごとの成長の栄養となっていることは申すまでもないことです。その日々の生活を幼いながらにどう過ごすかは、その子の将来の人となりに影響するものであり、ことに常に接触している親から受ける家庭でのしつけによるところが深く大きいと思われます。

家庭教育--しつけのたいせつさについてはいろいろの角度から日ごとのように耳にまた目にすることですが、やはり家庭基盤の充実がその土台ではないでしょうか。

古い言葉に庭訓とあるのをおもい出しますが、その土台の担い手として大きな役割を持っているのはお母さんでありましょう。規律あるそして温かい家庭の中での母親の教育こそが子供たちの将来の受け皿になると申しても、おおよその家庭に当てはまると思われます。もちろんその母親を支える父親の力を欠くことはできませんが。

家庭という社会(家族)の一員として子供たちにもそれぞれに果たすべき役割が必ずあるはずです。勉強も遊びも仕事もその家庭での在り方、やり方があり、その中で自分の立場や責任を知る、またともに歩む人たちとの調和や人の立場を考え、自我を抑える心、判断力も養われていくものと思います。人生に対するこのような基本的姿勢は親から学びとるものが多く、家庭でしっかりとしつけを受けた子は学校や社会での学習・訓練に対してもじゅうぶんに吸収できる素地が備わっているといわれます。

社会の憂慮をよそに広がりつつある非行の年少化や残虐性、また自殺なども、その子らにとってはごくささいなことから生じたやる方ない不満の爆発点と見られるのも多いようです。自発的な学習意欲の有無にかかわらず親の期待にそう子に育てたいために子供に無理がかかる、そして我が子が勉強をしてくれるならと、結局は子のわがままをきき入れ、余分な苦労はさせたくないといった甘やかしは、子にとってはむしろ空しさを感じさせていたのかも知れません。勉強一筋でなく人間としてたいせつなことを叩き込んでほしいと訴える子らの声にはっとさせられます。

親には学校の教師やお医者さんのように一定の資格は必要ではありませんが、しかし心身ともに健全な子、やがて次代を担う一員として社会にはばたいていく力は幼児の中に親の無限の愛情とともにしつけられ、はぐくまれてゆくものであろうと思います。子は親の生き様そのものであるといわれることにも心をおきたいと思います。

もの皆新鮮に躍動するこの季節に、家庭教育--しつけについてもまた見直してみたいと思い、その一端を述べさせていただきました。

 

 

 


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