教育福島0040号(1979年(S54)04月)-024page

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幼児教育に思う

須永秀子

 

児教育を短い年月の中でせいいっぱいしてやらなければならないと思っている。

 

水仙、こぶしの花がそそとして咲き乱れるころ、いきいきとしたつぶらな瞳の幼子との出会いが始まる。子供は親の手を離れて初めて出会うのが受持の先生である。多くの子供たちの中から何か縁あって受持つ子供たち、私ははこの不思議な出会いを尊いものとしてたいせつにしていきたいと思う。喜び、驚き、悲しみ、嘆きを素直に心で全身で表す子供たち、このような無くな子供たちに正常な幼児教育を短い年月の中でせいいっぱいしてやらなければならないと思っている。

幼稚園は幼児に楽しい生活の場を与え、その中で幼児のもつ可能性をその幼児なりにじゅうぶん発揮できるようにしてやるところである。幼児は、この楽しい集団生活の中で一人一人が自立し個を発揮しながら経験を積みあげていくことで自己を形成していくようになる。

幼児には幼児期でなければできない活動、幼児期でこそできる活動を存分にさせ成長発達の糧としてやりたい。

園庭に咲いている草花を見て「きれいだねお花も水が飲みたいんだよ」といって水をやり、小鳥小屋のインコに青菜をついばませ小鳥と本気になって話をしている幼児たち、砂場で全身をどろだらけにして、くずれ落ちる山に何度もちょう戦してみて初めて水をかけると砂が固まり山が崩れ落ちないことがわかってくる。友達と競争をしながら山を作り「僕の方が高い」「僕たちの方が少し低いね」と比べることもできるようになってくる。このように美しいものを美しいと思う心、小さい生命を持つものに対していたわりの気持ちを表すことのできる子供、本気になって遊んでいてその中から何かを見つけだす子供、このように子供は、遊びの中からいろいろなことを吸収していく。

幼児は創造性も豊かである。一本の棒一つの積木が車となり船となる。ままごと遊びでは家庭生活そのままの姿が写しだされ、すっかりその役になりきって遊ぶ。友達と遊ぶことにより一人では味わえない楽しさがわかってくる。澄んだ水の中を泳いでいる金魚を見て「これは僕の金魚だ」「これは私のだよ」と勝手に自分の金魚を決めて水そうの前を離れようとしない。幼児はまわりの物、環境にぐんぐんはいりこんでいく。大人にとってはつまらない物でも幼児には何よりの宝なのである。ダンボールの空箱を見つけて自動車を作り中にはいって走らせようと苦心している姿などから、幼児の遊ぶ場を見ているとさまざまな課題と取り組んでいることがわかる。さらに一人から二人以上のグループになることによって交わされる会話、持ちだされる個々の要求のぶつかりあいやそれを受容することなどにより対人関係についての経験も深めている。このようなことを考えるとき、教師や友達の人的環境や物的環境をじゅうぶん配慮し幼児がそれとかかわることで大いなる成長の糧となるようにしてやりたいと思う。

幼稚園教育では「芽ばえを培う」という言葉が多く使われている。この「芽ばえ」という言葉は、「花を咲かせないこと」「実をみのらせないこと」と解釈し、また「培う」という言葉は、「芽」のまわりの上を柔らかくしたり上を掘ったりすることでこのことは環境を整え、教材にくふうをこらすことでありその「芽」に直接触れることではない。幼稚園では知識や技能を身につけることをねらったり、幼児の発達に一定の標準レベルを想定してそれに到達させようとするのではなく、小学校生活でみごとに花が開く豊かな素地を作ってやることだと思う。

(福島市立福島第二幼稚園教諭)

 

砂あそびも楽しく

 

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