教育福島0040号(1979年(S54)04月)-025page
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ひとりひとりを見つめて
近藤義光
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「先生。K君が特選に入ったよ。」放課後、事務をとっていたわたしは、思わず腰をあげ、教室に入って来た女の子たちに向かって、
「ほんとか。」
と大きな声で聞きかえした。
「ほんとよ。よかったね。」
「K君のはうまかったもの。」
「うん。K君。たいしたもんだな。」
わたしも感嘆の声を出してしまった。
これは、二月の校内版画展の時のことである。展示のあと、図工部の先生がたが審査をすることになっていた。審査の結果、K児の作品が特選にえらばれたのである。
K児は学力のおくれている子で、言語動作がはきはきせず、授業中もじっと黙っているいわゆる学級の問題児である。そのK児が特選になった。これは本人はもちろん同級生にとっても、前代未聞のできごとなのである。
K児にとって学校から賞状をもらったのは、これが初めてである。
わたしは、K児の版画がたぶんえらばれるのであろうと予想しないわけではなかった。というのは、前日の図工の時間に全部の子が「刷り」を終わり、作品を提出しているのに、K児だけがまだ「彫り」が終わっていなかったのである。普通なら半端でやめてしまうKが、このとき、
「先生、放課後残ってやっていいがい。」
と申し出たのであった。放課後のKはそれは夢中で黙々とほっていたのだった。わたしは作品を見て、その構図の大胆さと彫りのこまやかさにおどろいたからである。
何の勉強をやっても理解の遅いK、運動をやっても人にすぐれるものを持たないK、友達とも多くしゃべらないK、そのKがこのように根気強く、このように器用に彫刻刀を動かしている。わたしは、こんなKの姿を見つめながら、自分の教師としての観察の甘さや指導のいたらなさを、反省しないわけにはいられなかった。
“子供のひとりひとりをたいせつにする授業”“ひとりひとりの子供を生かす指導”などと大上段にかまえて、子供の欠陥やつまずきや劣っている面ばかりに目を向け、その治療や追指導にばかり気をとられていなかったか、あの子はできる子あの子はできない子ときめつけていなかったか。K児を棒にもはしにもかからない子と見ていなかったか、子供の見方、評価のしかたが固定的でなかったか、いまさらのように反省させられるところである。
三年生になってもかけ算九九をまちがえていたA男は、ある日算数の考え方がすばらしいとほめられたのがきっかけで算数がすきになり、ぐんぐんと勉強するようになって、中学校では一、二番の成績で卒業した事例を知っている。A男をほめ、算数をすきにさせたB子先生のすばらしさに敬服すると同時に、教育の力の偉大さを痛感する。
どんな子にもかくれた才能がある。才能とまで言われないとしても、個性あるいはすぐれた点がある。これを能力と見るなら、どんな子にも何らかの能力がある。ただ子供自身そしてわたし自身がそれを見つけ出せないでいるのだと思う。子供には可能性が秘められているのだ。この可能性をたいせつにしたいと思う。そのことがひとりひとりの子供をいきいきと活動させることにつながり、自信と希望をもたせることになるのだろう。
K児は校内文集「かたつむり」にも詩を書いてえらばれた。わたしは頭をなでてやったら、にこっと笑った。
これからは、もっとひとりひとりの子供をたいせつに見つめていきたい。
(石川町立浅川小学校教諭)
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ひとりひとりの子を見つめて
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