教育福島0042号(1979年(S54)07月)-005page

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巻頭言

 

人間形成に及ぼす教育の力

 

人間形成に及ぼす教育の力

福島県高等学校長協会会長 山本敬二郎

 

最も意図的な教育が行われるのは、もちろん学校である。学校現場で我々教員は、日夜生徒の健全な発達を願い、その実現に努力しているわけであるが、人間、特に青少年期の人間形成のために、教育はどのくらいの影響力をもっているだろうか。また、我々が全力をつくして教育の任に当たれば、生徒はどのくらい発達するだろうか。

三十年前に本県の教員になって以来現在まで、この問題に対する明確な答えはないようである。つまり教育者にとって教育の力はどのくらいなのか、これを測ることは極めて難しいといえるだろう。これは例えば、職員会である生徒の非行問題を論ずる場合、必ずといってよいほど、提言に二種類あるのをみても分かる。すなわち一つは「この生徒は正常化する可能性があり、私が責任をもって指導するから、重い処置はしないでもらいたい」という意見であり、他の一つは「この生徒は見込みがないし、指導にも限界があるので、この際あきらめた方がよい」という意見である。この二つは、全く正反対の意見である。このように教育の力については、教師自身も考えが分かれるところである。

本年の国公立大の二次試験小論文で群馬大は「人は教育によって、どこまで変わりうるか」をテーマにしている。これは私の意地悪い見解では、出題者自身が解明できない問題を受験生にアンケートしているようにも思える。すなわち、教育される者自身が、教育の力をどう考えているかを知るために書かせているような気がする。

これほど難解な問題であるが、あえて結論らしきものを出してみたいと思う。

本県の教員になっての三年め、昭和二十七年に県から、当時の東京教育大に派遣され六か月間教育全般について研修する機会があった。このとき教育原理を講義された教授がこの問題にふれ、結論として「学校教育が人間形成に及ぼす力は約六割である」といわれたのが強く印象に残り、以後年をとるとともに、この六割説を信ずるようになった。三十年間の教員生活を通じ、学習や生徒・生活指導の面で努力もし、また、他の先生の指導をみた結果では、どうもこの辺が妥当らしい。さらに、三十年前と現在では、社会の様相が相当変化(進化ではない)しており、広い意味で教育の機能は、学校以外の場で果たされる面が強くなっているのが現実であってみれば、この六割説もかなり難しくなっているとも考えられる。

学校以外の場での教育の影響を考えると、意図的と自称する学校教育の影響力も小さくなったといえる。

しかし、以上は全くの私見であり、異論ももちろん多いはずである。特に情熱ある若い先生がたは、この私見に同調することなく、教育の力は全能と信じてもよいし、少なくとも自分がやれば、教育の力は六割以上という自信をもって生徒指導に当たってもらいたいものである。

私も若いころは教育の力を過信して、先輩の先生がたにくってかかったことを告白して巻頭言とする。

 

(福島県立福島高等学校長)

 

 

 


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