教育福島0046号(1979年(S54)11月)-005page

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巻頭言

 

「子供」その正しい理解

 

「子供」その正しい理解

 

福島県教育センター所長 佐藤信久

 

日本人の性急さの現れか。なにはともあれ、それだけは食わないんだ−食わず

 

「食わず嫌い」ということばがある。食わないことが嫌い。つまり食うことが好きということになりそうだが、実はその逆の意味に使われている。それは嫌いなんだ、食わないんだという意識のたかまりであろうか、あるいは日本人の性急さの現れか。なにはともあれ、それだけは食わないんだ−食わず

嫌いなのだという表現となったものと思われる。国語と社会は好きだが、理数系はどうも……と初めからきめてかかっているのはこの類である。こうした原因は生来のものというよりは、なにかのきっかけがあるようだ。

画期的といわれる新教育課程が、さまざまな願いをこめて、明年度から小学校をはじめに、中・高校と順次実施されることになった。その規範ともいうべき新しい学習指導要領は現行のそれに比し、大幅に削減されてしまっている。このことは、それぞれの学校・学級、児童生徒一人一人に応じた教師の創意くふうを期待してのことにほかならない。

いわゆる新しいメニューは出来上がった。しかし、料理のしかたによっては、せっかくのメニューも絵にかいたもちになりかねない心配がある。新しいメニューは「食わず嫌い」や食べ残しを少しでも解消しようという願いが秘められているはずである。これほど苦労して作った料理だからと自信たっぷりに提供したにもかかわらず、食べる側からすれば案外生煮えであったり甘過ぎたとか、ときには腹をこわして食欲がなかったといって轡をつけない場合だってある。また、中にはせっかくのごちそうも食べ方のわからない者もいることがある。こうした者を放置すれば栄養失調を起こしてしまう。

ルソー哲学の頂点といわれる「エミール」の中に、「われわれは子供についてなにも知らない。」とか、「われわれは誤った考えで子供を遇しておりそうすればするほど道を誤る。」と述べられている。われわれ教師を初め、親、そして世の大人たちが、それぞれの分野で子供の成長を願いながら、あれこれと心を痛めていることでさえ、子供自身の成長に資しているかどうか自信のもてないこともある。

私自身、子供を理解していたつもりであったことが、実は錯覚であったり皮相的な一面に過ぎなかったりすることを何度か経験していることに思いをはせ、このルソーのことばを一つの警鐘として反すうしたいのである。

教師は一般に子供を知っているものと見なされ、また、みずからもそのつもりになりがちである。これは考え方によっては、大きな盲点である。われわれは子供に対する先入観を捨て、謙虚に子供を理解しようと努力しなければならないものと思う。

このことが、新しい教育課程を展開するのに最も基本的なことではなかろうか。

 

 

 


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