教育福島0046号(1979年(S54)11月)-028page

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青春の日々

 

伊鶴クニヨ

 

伊鶴クニヨ

 

NHKの銀河テレビ小説「欲しがりません、勝つまでは」を見た。

竹ヤリ・バケツリレー・出征兵士を送る会などを見て、自分の少女時代が思い出された。女学校の四年生の時に第二次大戦が起こり、女子師範で竹ヤリ・バケツリレー・勤労奉仕と続いた。

専攻科では下級生が軍需工場へ学徒動員され、ただ勝つために夢中で過ごした日々……。

あの当時は、勝つことは、即ち耐乏生活にも音をあげずに我慢することだ。それ以外はないと思いこんでいた。だから終戦を迎えてからの生活が物と心の両面からひどかった。母の着物が木綿や絹物を問わず、次から次へと食糧に化けて行った。あれから三十五年自分の「青春」ってなんだったのかなと考えさせられた。

三十五年、それは今考えてみれば夢のような「束の間の一瞬」でしかなかったような年月である。就職した年(二十一年)は、母の着物を仕立て直した洋服で下駄履きだった。お弁当も家へ帰って雑炊をすすってくるのが許されていた。家庭訪問で農家の父兄を訪ねた時に「米が欲しくて来たのか」という陰口が聞こえて、腹を立てて早々に帰ってきたこともある。いつも、うるさくする子がおとなしい。そっとのぞくと、ノートの綴じ目に衣風を二匹ならべて、右手の鉛筆で風の尻をつつく。風の頭は左へ向いて動き出す。左端まで来ると、左手に持ち変えた鉛筆でチョコ・チョコとまたつっつく。風は回れ右をしてノートの谷間をモゾモゾと動き出す。風の運動会だ。驚くよりおかしくて笑い出す。そしてグロテスクなその動きに嫌悪感を覚えた。早速授業を止めて男の子の鼠取りを始めたっけ。あの頃は自分も風をうつっていた青春であった。

去る八月十五日に二十五年前の教え子たちが同級会に招待してくれ「僕の家内です」「家族の写真です」と家族の紹介をする。会社の職場の話をしてくれる。子供のしつけについて尋ねられる。みんな子供の時と少しも変わらない。いっしょにスケートや、蛍狩り、魚釣りをしたことが目に浮かんできた。社会人として立派に活躍している彼等のようすを目の前にして「あゝ、私の青春がここに生きている」と思った。

秋の彼岸の前日に、教え子の母からの手紙が届いた。三十四才の若さで一生を家族のために働いて亡くなった長女のことが、細かに述べられてあった。先生に中学三年のとき「働いてくれるからといって、使って、この子の将来になにが残るのか」と言われたことがしみじみと思い出され、亡くなった子に詫びていますと。彼女は両親の生活を助けるために一年の三分の一以上も休んで配達や製造と家業を手伝っていた。成績もよく、掃除も当番も「休んだ分も」といってよくしていた。愚痴一つこぼさずに働いていた彼女を見かねて自分よりずっと先輩に当たる父兄へ失礼なことを言ったらしい。ここにも私の青春があったなと笑うと黒ずんだ歯を見せていた彼女の顔とともに思い出した。

私自身結核で療養したこともあって、現在の聾学校へ移ってきて十五年になった。今年も卒業生から「学校にいるときはいろいろお世話になりました」と便りがきた。とても手のかかった子だったので、思いがけない手紙をみて「成長したな」とうれしく、みんなに見せて歩いた。今は、退職までのわずかな期間が私の残された青春だと思って、今日も子供たちに勉強を当番をと口やかましく叫んでいる。

(福島県立聾学校教諭)

 

この子らの幸せを願って

この子らの幸せを願って

 

 

 


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