教育福島0050号(1980年(S55)04月)-026page

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随想

 

保育に情熱を

 

掃部陽子

 

長い間、この考え方にとらわれてきたのである。ふしぎといえばふしぎである。

 

文部省幼稚園教育担当者、指導助言者、各都道府県指導主事、幼稚園長・教諭あわせて四百九十名余りが一堂に会し、教育講演、研究発表、研究協議が盛大に行われた。大会に参加し、身がひきしまるような思いと感動を覚え、今さらのことながら自己を反省したり明日からの保育実践に意欲を燃やしてきたりしたしだいである。特に考えさせられたことの一つに、独協大学教授波多野誼余夫先生の講演「幼児の見方・伸ばし方」がある。先生は、五十年前、発達心理学者J・ロアジェが言った、『幼児は自己中心的である』について「これは自分の見方と他人の見方の違いがわからない未発達な幼児の姿や特徴を定義づけたものであるがこれは偏見である。また、この考え方は、おかしいということが七、八年前から心理学者の間で問題になっている」と話された。このことの裏付けとなる具体例を聞きながら四十二、三年もの長い間、この定義づけが信じられそれを前提として保育活動がすすめられてきたことに対し、なんともいえない感をもつと同時に疑問さえ感じた。幼児の発達段階に適した効果のある指導をするためには、幼児の実態(幼児の発達の把握・幼児の心理の発達の把握)をよく理解した上で適切な指導計画を立て、実践することが重要であるとよくいわれている。また、その重要性については諸々の研究会においても幼児教育の中核的な考え方として、つねに浮きぼりにされているところである。にもかかわらず「幼児の自己中心性」に関しては、あまり問題視されず五十年もの長い間、この考え方にとらわれてきたのである。ふしぎといえばふしぎである。

私自身、理論書や教育書を読んだり講演を開いたりしてもいそれを頭の中だけで消化してしまい「幼児を見る目」に甘さがあったことを思い、深く反省させられた。また理論書は難しいと決めつけずに熟読し、それを土台として絶えず実践・確かめ・考察の作業をくりかえし、前向きの姿勢で保育にあたらなければならないと痛感した。即実行!幼稚園教諭として、まだまだ花の小さな私である。二日目のグループ討議(バズセッション)にのぞみ惑いと緊張を感じながらも自分の視野を広げることができ、とても勉強になった。

 

純粋な幼児とのふれあい

 

純粋な幼児とのふれあい

 

討議題は、「思考力の芽ばえとはなにか」、「思考力の芽ばえを培うための教師のかかわり」である。考えがまとまらず頭を三角にしている私にバズセッションの内容を発表するよう指名がきた。討議内容を整理し、自分なりにまとめて発表しなくてはならない。頭の回転の悪い私にとって気がせくばかり、心臓がはりさけんばかりの思いであった。しかし「なせばなる」と気を強く持って意見を述べ、発表し終えた自分を心の中で、ちょっとだけ、ほめてみたりもした。私はつねに自分に対し、「なせばなる」の気持ちをもっている。

それが、先輩から「ジャジャ馬」とあだ名をつけられた要因かも知れないが…。「なせばなる」の信念、「ジャジャ馬」のあだ名に含められた私への励ましを心の糧とし、また、今回の大会の経験を大切にしながら保育に情熱を燃やし、いつまでもこの仕事を続けていきたいと思う。そして、真の幼児の姿を見つめ、純粋な幼児とのふれあいの中で、積極的に自分をも磨きあげるとともに、幼児と教師が一体となり効果のあがるすばらしい保育をしたいと考えている。

(福島市立大笹生幼稚園教諭)

 

 

 


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