教育福島0050号(1980年(S55)04月)-027page

[検索] [目次] [PDF] [前] [次]

随想

 

研修について

 

阿部貞夫

 

<研修ということばの原義>

 

<研修ということばの原義>

・研修--和製のことば(漢語ではない。「○修」という漢語は百ほどあるが、この語はない)

・昭和二十四年一月、「教育公務員特例法」と同時に誕生した。

第三章 研修

第十九条 教育公務員は、その職員を遂行するために、絶えず研究と修養につとめなけばならない。研究と修養につとめなければならない。

・研--研究のこと。

・修--修養--徳性をかん養し、人格を高めること。

私は、昨年五月八日から六月十二日までの三十六日間、国立教育会館筑波分館における「教職員等中央研修講座」(文部省初等中等教育局主催)を受講させていただいた。

冒頭に記したのは、その五日目、分館長鈴木奎吾先生の講話の記録の一部を抜き出したものである。

先生は、また「教育とは、魂と魂との接触交流を契機として、人間相互の共鳴共感によって起こる生命の昇華作用である」とも言っておられた。

更に、学と教の文字の分析を通して「師の後姿や横顔が、子の手本となる」と説いておられた。

教育の観点から入り、東洋哲学の深淵にまで触れさせられた感じがして、知らず知らずのうちに背すじの伸びる思いがしたのを、つい昨日のことのように思い出す。

私は、今年で教員生活二十一年目であるがそのほとんどの年月を音楽(特に合奏)の指導に力を注いできた。

十数年前のことであるか、東京芸大のK先生を訪ねて、選曲のご指導をいただいた時のことである。

選曲に当たっては、手持ちの楽器の種類、数、児童の演奏能力、私個人の指導力などが大事な要件になるので、それまでに手がけた曲の録音をいくつか用意していって、まず聴いていただいた。

 

法規演習(筑波大)

 

法規演習(筑波大)

 

K先生曰く「かみそりの刃のように研ぎすまされた演奏ですね」

私は、おほめの言葉をいただいたと思い、内心とてもうれしかった。

ところが、だんだん考えてみると、これは、私の不明のいたすところを指摘された言葉にほかならなかったわけで、今になって、大変恥かしい思いをしている次第である。

つまり、音のまちがいはなく、音量の増減もほぼよく、すっきりとした演奏にはなっていた。が、そこに子供たちの心は入っていない。強いて入っているというなら「まちがったら叱られる。絶対にまちがったらだめだ」という緊張した気持ちそのものである。

子供なりに曲を受けとめ、それをすなおに表現させる指導が欠けていたわけである。

これは、とりもなおさず、指導者である私個人の音楽そのものに対する研修のお粗末さ、作曲者やその曲に対する研究不足、実際の指導に当たる時の私自身のまちがった指導の姿勢などをひ歴したものにほかならなかったわけである。

「子供は親の鏡」という。教師と児童の関係についても、同じことがいえると思う。

児童をよりよく伸ばすために、たゆまぬ研究と修養を積んでいかねばならないと思っている。私の後姿や横顔が子供たちのために、少しでもよい手本となるよう念じつつ…。

(郡山市立芳山小学校教諭)

 

 

 


[検索] [目次] [PDF] [前] [次]

掲載情報の著作権は情報提供者及び福島県教育委員会に帰属します。