教育福島0053号(1980年(S55)08月)-005page

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巻頭言

 

教育課程の実施におもう

 

教育課程の実施におもう

長谷川 寿郎

 

この四月から新教育課程による教育が行われておりますが、今回の教育課程の基準の改善は、今まで行われてきた改善以上に重要な意味があると思います。それは、十年毎に改訂が企てられてきたものの一つに過ぎないなどというものではなくて、戦後教育をオーバーホールして、新たに出発しようというのであろうと考えられます。それだけの覚悟をして取り組んでおられるものと思っております。

ところで、事は学校教育の改善というわけで、学校の内側の問題であるように、家庭や社会が考えているとしたら、とんでもないことで、この改善はとうてい成就しそうに思われません。教育課程審議会の答申でも、「今回の教育課程の基準の改善のねらいを達成する上で、家庭教育や社会教育の果たす役割は大きい。そのためには、学校教育と家庭教育や社会教育とがそれぞれの機能を発揮しつつ、相互に補完し合う必要がある。特に、社会教育との関連については、地域の実態に応じて学校が社会教育施設を利用するなど、社会教育活動との連携を図る必要がある。」と述べています。このことを十分実践しなくてはならないと思いますが、一般に世の親たちに今度の教育の改善のねらいをしっかり理解してもらい、改善のねらいに添う家庭生活の展開がより充実するよう訴え続けることが極めて大事です。それをどう具体的にすすめるかが、学校の、また教育行政の課題でなければならないと思います。

さて、各学校は、それぞれ創意をはたらかせて新しい教育に取り組んでおられるわけですが、気にかかるものがあります。杞憂に過ぎないならばまことに結構で、是非そう願いたい。

まず、創意を生かして行う教育活動ということが言われていますが、特定の時間帯にだけ実践されることではありますまい。創意ある教育活動と教育における創意工夫とは違うという説明を聞いたときは、びっくりしました。ゆとりのあるしかも充実した学校生活を実現するということは学校生活全体について創意工夫をはたらかせなければならないのであり、その一貫としてある特定の時間帯にも創意を生かす教育活動が展開されるべきものと思うのですが、どうでしょうか。授業についても、一人一人を生かす指導のあり方については、まだまだと言ったらみる目がないと叱られればありがたい。

「子供の側からの教育」とよく言われる。その本当の意味がはきちがえられ、教育を忘れるようなことにならないよう願いたいものです。

この際、教育の本質をあらためて自らに深く問う必要があると思います。

世界史の原理的転換期に際会して、新たな史的創造を担うに足る人間の教育、それに応えるべく人間性豊かな児童生徒の育成を期して出発した教育実践であるはずです。

(はせがわじゅろう 郡山女子大学短期大学部教授)

 

 

 


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