教育福島0054号(1980年(S55)09月)-029page

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随想

老後をおもう

佐々木郁子

 

に必ずおとずれるであろうことばかりで、聞きずてにはできない心境であった。

 

先日、五月ごろだったと思うが、何気なくテレビのスイッチを入れると、教育テレビで「高齢化社会を考える」討論が行われていた。お茶の水女子大の湯沢先生、日本団体生命の村上先生、医事評論家の水野先生が、未来の人口問題、老人問題を興味深く、それぞれの立場から専門的に話しておられた。老人福祉や、親子同居のこと、嫁と姑との関係、年金、人口問題等々、私たちの老後に必ずおとずれるであろうことばかりで、聞きずてにはできない心境であった。

急激な社会情勢の変動の中で、年を重ねてきた昭和一桁生まれの私たちは、自己犠牲の上に立って誰かのために生きることの美徳を物心ついたころから教え込まれ、現実には生活に追われ、子育てに追われながらがんばり通してきたわけであるが、最近は、思い出話や苦労話が多くなり、食べものの好みも変わってきた。とりわけ、若い人たちに接してみると、若い人特有のういういしさとか、はちきれるような若々しさや、つややかさにうらやましさを禁じえない。そろそろ老境に入る心構えをしなければならない年齢になったのだと思うと情けないような気さえする。

誰しもが、人生の中で経験しなければならない、人生の終末に近づいたという一つの証しとしての「老」ではあるが、人々の目に映える老醜、また、自分自身が感じとるであろう精神や体力の衰えと疎外感、そしてその次にくるべきことを考えれば、老は誠にさびしく切ないことばかりである。しかしこうした考え方は主観的で、自己中心的な物の考え方で、老人であってもやはり家庭の一員であり、社会の一員であることには変わりなく、それなりの責任もあるはずである。

老人になって主として家庭の経済的な面での活躍の場からしりぞいたからといって、家庭人であり社会人であることをやめるわけにはいかないし、生きている間は、何かに、誰かに影響し影響されているはずである。

しかし、次第に体力が衰えていくわけであるから、年老いてより人間らしく生きるということは、もちろん若い時よりずっとずっとむずかしいし、それだけに今までより一層自分が何をなすべきなのか、どう生きるべきなのかという人間としての基本的な問題に真剣に取り組み、いろいろと学び、修業し実証していかねばならない。ここにも生涯教育の姿勢があっても良いと思う。

私にも八十五歳になる義母が居り同居しているが、明治人としての気迫がみなぎり、士族のプライドも失わず、生活の中に「年寄りだから」などというあまえは一つもない、厳しい生き方をしている。そのせいか常に年齢より十歳以上は若くみられ崇敬される老人のタイプである。精神力の強さ、主義主張のはっきりしている点など私としても教えられることは非常に大である。そしてこの厳しさこそ、体力や精神力の弱くなった老人が「孤独」にたえ得る原動力となっているのだと思う。

もちろん過去のデータによって、私の自画像はできあがっているが、今なら修正できるような気がする。今だからこそ冷静にふりかえることができ、不足している所も補えるのだと思う。そしてきたるべき高齢化社会に生きる老人として、若い者の同情やいたわりの心をなるべく借りずに生きていくために、私もまず、他人に述惑をかけないよう健康を維持することに努力をしたい。

第二に若さと情熱を失わないために「求める心」を持ちたい。第三に自分のためにも人のためにも平和と慈悲の恵みがあるように心の中に「仏の心」を持てるよう修証したい。

このことは、老いてから心掛け努力することではなく、私の人生の中で今こそ心がけ努力して行かなければならないことであり、実はこの三つの願望に対する毎日の努力の過程の中にやがてくる老人という姿があっていいのではなかろうか。

何はともあれ、長い人生を経験したものに与えられる分別心とか、やさしさ、ゆずる心等、老人の良さを発揮し追憶だけに生きるのではなく、希望に生きられる老人、燻銀のような、広く深い知恵と魅力をひめた老人になりたい。

(白河市教育委員会委員)

 

 

 


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