教育福島0054号(1980年(S55)09月)-028page
随想
人ほど…
柴田行康
一学期のある日、「人ほど楽しいものはない」と、キリン紙半切大に墨書して教室に掲示した。三年間の高校生活の中で、お互いに助けたり助けられたり、喜怒哀楽を共にすることのできる仲間がいることの楽しさ、つらいことだが耐えながら一事をなし終え、よりよいものを生み出したり、自分の中に今まで気づかなかったものを発見したりする成長の楽しさ。生きることは大変なことだけれども、食べるために生きているのではなく、自分の存在は小さいながらも他のために役だっていることの意義を知ることの楽しさ。人と人とが宇余曲折はあってもわかりあえることの楽しさなどである。生き生きとしていることが実感できたらそれで十分だとつけ加えた。
イガグリ頭とセーラー服の余香を残しながら希望を持って入学して一年、今や中堅学年となって長髪もイタにつき、体もずっと成長したが、精神面では不安定で、校内外での弱い者いじめやバイク問題、校則違反に怠学など、何かと問題をかかえている二年生男女共学の学級である。
週がわりで何枚か掲示したものの一枚であるが、実は受けとめ方はまちまちでも、そんな掲示物をも通して自分の心に対し正面を向かせたい一念からである。そしてこのごろ思うことは、幼稚な文句ではあるが、「よい返事、自分の意志を明確に」である。先日、娘の中学校の父兄懇談会に出席した時担任の先生から“返事のできない子”が何パーセントだったかいることを耳にして思い出したのであるが、私も毎年新学期当初には自分の学級だけでなく、授業に出ている各クラスで、高校に入学したことの意義から、よい返事をすること、意思表示をはっきりさせること、まちがいをおそれずにどんどん発表して自己啓発につとめることなどを説いているものである。
自分をかばいすぎることなくさらけ出してやろうと呼びかける。まちがうことは恥ずかしくない。何かに向かっていれば失敗もある。失敗をしないのは何もしていない証拠だと励ましてみる。
本校に入学してくる生徒の多くは、中学時代の進学競争の中で自分を発表する場が比較的少なかった者が多いと思われることから、学習と平行してせめて在学中にこれらをしっかりと身につけさせてやりたいと思う。この短かい三年間は、卒業後社会生活を営んでいく上に必要な基本的なことを、体で覚えていくことでもあると考えるからである。
人とのこころよい生活、人間らしい心のやりとりは、すべて、名を呼び合うことや、よい返事よい挨拶から始まる。次元の低いような話ではあるが、この基本的なものをおいて背伸びはできない。
いつもこんな例を挙げてやる。私が十年も前からお世話になっている内科医院があって、三人の看護婦がいるが皆患者一人一人を、それが子供であっても、朝は“おはようございます”昼は“こんにちは”と明るい声で迎えてくれ、投薬の飲みかたをていねいに説明し、終わると「お大事に。早くよくなって下さいね」とことばをかけてくれるのである。
この真心溢れる態度はおそらく院長先生からしつけられたものと思うが、立派に社会教育の役を果たしている。
教育の重要性とともに、「医は仁術」を地で行く温かい人の心に接して、有難く、快く、お世話になったことであると。
私の教え子の中にも看護婦を志す者がいる。責任を持ってあたる仕事は何でも厳しいものだが、同じく一日の仕事をするなら、たとえわが身は疲れていても、自分の持っている人間らしい温かさを分け与えられるような大人に成長していってほしいと願うものである。
さて、あと一年半の間に、生徒たちは、私が「三年間で」と考える所期の目標までどのくらい近づいてくれるか疑問ではある。
しかし、継続して実践していかなければならない。「人ほど楽しいものはない」ことの意味を、私が話したこと以上に幅広く、卒業後の十年先、二十年先にでも感じとってくれれば幸いであると思うのである。
(福島県立好間高等学校教諭)