教育福島0061号(1981年(S56)06月)-005page

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巻頭言

 

電話と手紙

 

江刺昭子

 

ときなど、未知の人に会う億却さが先に立ってお断りしてしまうこともある。

 

顔も名前も知らないかたから電話がかかってくることがある。会いたいのですが、とおっしゃる。要件はカクカクシカジカ、と。そんなとき私は少し俊巡する。そして、要件の内容にもよるけれど、気持ちが屈託しているときなど、未知の人に会う億却さが先に立ってお断りしてしまうこともある。

電話を切ってから、私は反対の立場に立つ人のことを考えてみる。というのは、私は人物評伝を書くのを仕事にしているので、人に会い、人の話を聞くのが、作業の大切な部分をしめているからだ。明治から大正、昭和にかけて社会的な活動をした女性たちの足跡を追うとき、一人の人間の生き生きした姿をとらえるには、活字の資料だけでは不十分で、生きた証言が重みを持つ。現代の世に忘れられ、歴史の底流に埋もれた足跡が、古老の昔語りにくっきりと生きていることがある。だから、当人が健在であればもちろん会うし、故人であれば身内や友人たちを訪ねて話を聞かせてもらう。その場合、ほとんどがまだ一度も会ったことのないかたである。

やっと探しあてた住所と電話番号を前にして、一日でも早く会いたいとはやる気持をおさえつつ、私は便箋に向かう。私はどういう人間か、どんな仕事をしているかを説明したあと、面会させてほしい目的を詳細に書く。私は名だたる悪筆家だが、悪筆なりに心をこめて書く。原稿を書くとき以上に文面に気を配り、時間を費やす。そうして、この手紙の到着するころにお電話をしてご都合を伺います、と結ぶ。先方に手紙が到着して一日くらい経ったと思われるころを見はからつて電話をする。結果は九十九パーセント承諾していただげる。多忙な人、過去を忘れようとしてかたくなに心を閉じていた人も、ともかく面会の機会は作ってくださるのである。

手紙を書くのを省いて、いきなり電話をしたらどうだろうか。たいていの人は、当惑して拒否されるにちがいない。どんなに言葉を尽くしてみても、情理かねそなえた電話というのはなかなかできにくいものである。ゆき違いや誤解も少なくない。それに年齢も過去の経験も現在の立場も異なる未知の人間同士の間に、コミュニケーションが成立するには少しばかり時間が必要なのではないだろうか。まだるこしい気がすることもあるけれど、手紙は、その役割りを果たしてくれるように思う。

マスコミを仕事の場所にしている私は電話を大いに利用する。事務的な打ち合わせや急ぎの用にはなくてはならない道具だと思っている。その便利さに慣れてつい電話機に伸びる手を引っこめて便箋に向かうこともまた多い。

人にものを頼んだり、お礼の気持ちを伝えたいときは、悪筆の恥をしのんで書く。しばらく会わない人に近況のくさぐさをしたためる。そうして書け、ば書いただけ、私のところにもたくさんの手紙が返ってくる。手紙だけでなく、豊かな人間関係が返ってくる。

(えさし あきこ・第十三回田村俊子賞受賞者)

 

 

 


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