教育福島0064号(1981年(S56)09月)-055page

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こぼればなし

昭和五十一年十二月十六日、国際連合第三十一回総会は、五年後を国際障害者年にすることを全会一致で決議した。五年後とは、一九八一年、今年である。テーマは、障害を持つ人の社会への「完全参加と平等」である。

本県では、この国際障害者年を記念して、県養護教育振興大会が開催された。大会では、学校現場で、直接養護教育に携わっている教師や父母の立場から、養護教育への提言がなされ、県立聾学校中学部生徒四十三名による器楽合奏も発表され、参加者に深い感銘を与えた。

また、記念講演に立った作家水上勉氏は、自らの人生の軌跡を語る中で、人の心−−氏のいうところの「心田」にふれられて、心の中の美の大切さを訴え、独特の語り調子で会場を魅了した。

ところで、過般、劇団四季により演ぜられた「エレファントマン」を観る機会に恵まれた。これは、昨年度の芸術祭賞優秀賞を受けた作品であり、ビクトリア時代の「象人間」にまつわる話である。実在したエレファントマンことジョン・メリックと、ビクトリア女王、アレクサンドラ王妃、ジョージ五世らもその患者であった高名な外科医フレデリック・トリーブスとのかかわりあいの中で、舞台は進行していく。

トリーブスは、その回想録(一九二三)に、一八八四年の十一月、見物料二ペンスのみせものとしてのメリック−−この時、みせもの小屋の親方でさえも、メリックがイギリス生まれで二十一歳であることくらいしかわからなかったというとの出会いを、「私が今まで見た人

間の中で、もっともおぞましいもの。いままで、この孤独な姿ほど、正常さを脱逸した人間を見たことがなかった」と綴っている。遠いビクトリア時代のこのおぞましく、孤独で、正常さを脱逸した人間としての不幸は、現代社会への諷刺などということばでは言いつくせない、現代の不幸そのものに重なってくるのではないかと今、国際障害者年を迎えて思うのである。

さて、演劇に門外漢の編集子が、この「エレファントマン」を観ることになったいきさつは劇団四季から招待を受けたこともその一つであるが、この舞台をつとめた俳優氏と旧知の仲であったからである。フレデリック・トリーブス役の麦 草平、ロンドン病院の院長カーゴムを演じた菱谷紘二、エレファントマンのみせもの小屋親方ロスの光枝明彦の各氏である。もっとも舞台終了後、光枝氏のいきなはからいで、エレファントマン役で好評を博した市村正親氏とケンドール夫人三田和代さんとも、酒酣酣暢、夜を徹して語りあうことができた。そして、これら舞台人のほんものに迫ろうとする熱っぽさが、さわやかな感動をともなって、ともすればどこかに置き忘れがちであった大切なものを、よびもどしてくれるのである。

われわれは、障害者メリックをみせものにするような悪徳者を許すことができないが、今回は、親方ロスを演じた光枝明彦氏に原稿を依頼した。光枝氏は、親方ロスの口を借りて、「それは天の配剤である」と言った。

まもなく、ロスの仮面をはいだ、光枝氏のほんとうの心が配達されるはずである。

あとがき

○秋九月。セブテンバー。セブテンバーの sept は seven の語源。ローマ暦では、三月が第一の月であるから七番目にあたるのが、この九月。長月、玄月、菊月、紅葉月、夜長月、木染月、小田刈月など……。

○夜長月といえば、木染月を背にしての読書の季節。「月に座して宝書を読む」ということばが好きだ。

○秋はまた、月との縁がある季節。秋月といえば、秋の夜の澄み渡った月をいう。文字どおりの明月をさす。影さやかな明月などというと何やらロマンの匂いがしてくる。室町時代になってから、十三夜や十五夜の月に「名月」があてられるようになった。

○また、月は鑑。鑑は子供の姿を正しくうつす。(ひ)


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