教育福島0066号(1981年(S56)11月)-005page

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巻頭言

 

バイオエシックスと教育

坪井栄孝

役に立ったが、今は何の役にもたっていないという意見が多かったからである。

 

あるPTAのお母さんたちが、子供に生きた自然を学ばせるためにヤゴを飼ってトンボになるところを見ぜたいから、池をつくってくれるように教育委員会に要求した。早速、池をつくることになったが、ヤゴやトンボの生育にはボウフラも蚊もいなくてはならないことに気付いた。すると、蚊がでるのではトンボどころではないからやめにしようということになった。また、ある教育委員会で住民の健康広場をつくるため、その地区に古くからある沼を埋めることにした。昔は灌概用水として役に立ったが、今は何の役にもたっていないという意見が多かったからである。

子供たちに自然を学ばせたいということは、人間も自然の中の一員であり、人間が生きていくためには、すべての生きものやあらゆる自然現象のたすけが必要なので、人間の都合だけでは生きていけないのだということをさとらせるためである。また、広場で思い切り汗をながして走りまわることも健康な身体を作るために大切なことではあるが、かけがえのない自然を犠牲にすることの損得勘定は、もっと慎重にすべきである。沼にはそれこそトンボも蚊もいるし、それをねらって小鳥があつまってくる。それらの生態を、子供たちはしらずしらずのうち学び、成長していくのであり、大人はその自然環境から得られる精神的物質的潤いが、どれだけの価値のあることなのかを考えた上で、「何の役にもたたない沼」と断定したのだろうか。とかく現在のような高度工業化社会の中で、人間が際限なく便利さを追求することが可能になってくると、その傲慢さの果ては自分の生存秩序までも破壊してしまう結果になりかねない。

最近、バイオテクノロジーという学問が盛んになり、遺伝子操作という夢のようなことが現実になった。木材からアルコールを作るといった次元で、遺伝子操作を商品化しているうちはいいが、かつて原子核の操作のあげくの果てに、広島・長崎で大勢の人の生命をうばってしまった殺戮兵器を作ってしまった愚を、再び繰り返すようなことにはならないだろうかと危惧するのである。今こそ人間はこの愚行を未然に抑止し、人類永劫の生存を保持するために、越えてはならない限界をさとることもできる叡智をもつべきである。そしてその叡智が、バイオエシックス(生命の倫理)とよばれる新しい倫理観であると理解している。

この理念の原点は、子供のときに自然の生態系の中からしらずしらずに教えられた「人間もまた自然の中に生きている」ということの理解であり、人間が人間だけの都合では到底生き続けていけないということをさとらぜることである。そしてまた、今日の赫々たる科学者の研究でさえも、バイオエシックスに基盤をもっていなければ、真に人類のための研究とも進歩ともいえないのだということを教えておくことである。教育の中にバイオエシックスの理念が導入されてこそ、人類生存の未来がひらけることを信じるものである。

(つぼいえいたか 県医師会常任理事)

 

 

 


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