教育福島0070号(1982年(S57)04月)-005page

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巻頭言

 

変わるもの変わらぬもの

 

斎藤馨

 

斎藤馨

 

私たち人間の目には勝手なところがある。蜜柑はどれもこれも同じ蜜柑、近ごろよく見かけるようになったが、蚯蚓は蚯蚓としか見えない。これが同じ種でも数が多くなればなるほど、皆同じに見えてくる。ごま粒のごとく。四季の移ろいもまた然り、一年周期で永劫に自然が回帰するとしか見えないことが往々にしてある。変わるのは、まるで人類の所産である造形とこれに深くかかわる自然環境のみであるかの感に囚われる。しかし、ここに人間本位の独善と狭量が見える。

あるいはそうでないのかもしれないけれど、立場を換えて、蜜柑や蚯蚓らから眺めた人間が同様見えるかもしれないのに。確かに、一見私たち周囲の人為環境は日進月歩変化(進化かどうかはともかく)し、止まるところを知らない、自然は輪廻こそすれ、変化していないようなのに。

だが待て、果たして前者は変わり、後者は変わっていないのか、所詮私たちは、人間の目でしかそれらを見れないにしろ、つまり、天空の遥かかなたから、気の遠くなるようなサイクルで変化する、しないを判じた場合、どちらもさして変わりがないものとまでは達観しなくても、もう少し私たちの普段及ばぬ思念をいろいろめぐらせば、そう早計に断ずるものではないことが分かりそうなものではないか。

学校教育の場で、生徒指導、校内暴力が今日ほど問題化したことはかってない。世の中の目まぐるしい変化と、人生数十年の、思えば長いライフサイクルの一こまでの、人間としてより充実した時を過ごすことへの本然的欲求との相剋が、否が応でも大人から順次年若い生徒児童の方へとその心を蝕みつつある。かつての子供である今の大人の世代とでは、まるで周囲が違いすぎる。考えれば不便であり、一面よくぞ堪えぬいているものと思う。

近年、恐るべき速さで現代社会を変容させちつある情報化、輸送のスピード化、技術革新等、総じて物神崇拝の風潮は、一見、人為万能の楽観思想に通じるが、実は、深刻な個性滅却のニヒリズムに堕するおそれがある。変えてよいものは変えるべきだが、変えて困るものは、努めて変えるまい。蚯蚓は復活しても、昨今の道路では見る間に枯死状態になる。私たちの後を継ぐべき我が子らをそうさせまい。時の流れに身を任せすぎ、浮いては沈む事象にこだわって、変わらぬもの、変わってはならぬものへの洞察を欠いてはならぬ。学校、家庭、社会の大人らは、あげて児童生徒の個をよく見つめ、教え育てることの真の意味をよく考えてみる必要がある。

今日の教育の基本課題は、人間喪失に抗し、その復権を期するところにある。教育に職を奉ずるもの、このことに全力を傾注しようではないか。

(さいとう かおる・県教育次長)

 

 

 


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