教育福島0070号(1982年(S57)04月)-006page

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提言

 

信頼できる文化を

画家 吉井忠

 

筆者紹介

明治四十一年生。主体美術協会創立会員。大正十五年旧制福島中学校卒業後、太平洋画会研究所に入るため上京。昭和三年秋、帝展に「祠」が初入選、以後同展に五回入選。昭和十一年秋からパリに約一年間滞在。万国博で見たピカソの壁画「ゲルニカ」に驚嘆したという。

帰国後の活躍はめざましく、独立展に作品を発表、創紀美術協会の創立に参画。超現実主義絵画運動を始め、昭和十四年福沢一郎氏らと美術文化協会を創立し、弾圧の中で第一同展を上野で開く。

終戦と同時に、本県の大島農場(当時岩瀬郡仁井田村)に入る。自由美術家協会を経て、昭和三十九年主体美術協会を創立。昭和四十年代前半には、中国各地及び欧州からギリシャ、エジプトを経て、シルクロード、中央アジア、インドを歴訪する。このころ、アジア文明を考える。

 

画を描き出して、もう何十年かになる。久しぶりに会った昔の友達に、お前まだ画を描いているのか、といわれることがある。画に関心のない人から見れば、画を描いて一生をつぶしている人間がこの世に存在することは不思議なことだと思うだろう。

そういう私も、実業家とか役人の存在そのものを知ってはいても、この人たちが日常どんなことを考え、どんなことをしているのか全くわからないことがある。時にはそういう人々を別世界に住む人々ではないかと思ったりもする。同じ日本人といっても私たちにはまるで想像もできない考えと暮し方でこの世に住んでいる人々が実際いるかも知れない。

例えば、釣りとか登山に凝って、たしかに当人は夢中なのだが、第三者にはその妙味はさっぱりということがよくある。これなどは別に大した問題ではないが、金もうけに命を賭けている人のことなどを耳にすると一寸話は別な気がする。

大人と子供、女と男。ここにも互いに理解し合えない複雑な問題がある。

みんなが自由に生きてやりたいことをやり、それで満足し、人間らしく充実した人生を送ることができ、それが他人に迷惑をかけずにすむことならこんな結構な話はない。ところが、現実はなかなかそうはいかないらしい。町でも村でも大きくは国の中でも、また更に大きく世界の国と国の間どこでも、矛盾や対立や争いが絶えない。どうかすると戦争という破局を迎えるということになる。歴史はいつもすんなりと万人のために美しく発展し動いて行くとは限らない。

どうしてこんなことになるのだろう。原因は無数にあるから

 

 

 


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