教育福島0071号(1982年(S57)06月)-005page

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巻頭言

 

行遠必自邇

 

とおきにいくにかならずちかきよりす

 

竹川佳寿子

 

竹川佳寿子

 

教師が理科の授業で、太陽が地球を中心に回るのか、地球が太陽を中心に回るのか、を教えていた。すると生徒が「先生、それ試験にでるの」と聞いた。「もちろん出るさ」と教師が答えたら、次に生徒はこう質問したのである。「先生それどっちが正しいの」

(週刊朝日)

この例にみられるような、過程は問題にせず、結果のみを重視するという思考、近い将来にのみ役立つと思われるもの、しかも未熟な段階にそう考えるものだけを学べばよいという性急な考え方が若い人々の間に最近目にみえてふえてきているように感じられる。時代によって、現象的にあらわれる若者像は多少異なっていても、若者とは、いつの時代においても、素直な吸収力を持ち、無限の可能性を持った存在だと思っている私には、このような性急な考え方のなかで若者が成長していくことが気がかりでならない。

大きな花を咲かせるためには、肥えた土に、まずその根をしっかり張っていなければならないし、遠くへ矢を放つためには、十分に弓をひいておかなければなるまい。「中庸」に「遠きに行くに必ず邇きよりす…」という文がある。諸橋轍次博士の説明によれば、これは「遠いところに行かんとする者は、必ず近いところがら第一歩をはじめる。なにをするにも順序がある」ということを述べたものであるという。「高きに登るに必ず卑きよりするが如し」とつづく文をみれば、なお一層文意は明らかである。「中庸」のこの文を引用するまでもなく、近いところがら、低いところがら、地道に積みあげて目標に近づくということは当たり前のことと思われるのに、若者の間に、先をいそぎ過程を省略したがる傾向をみなければならなくなったのは何故であろうか。

それには、おそらく効率の良さを至上のものとし、繁栄をひたすら追い求めて走りつづけてきた社会風潮、その風潮に適合的な人間造り等が無関係ではあるまい。このままいくと、しだいに過程を軽んじ、安易に結果のみを求め、ものを考える力を失った若者がふえていくのではないだろうか。

教えられたことはよく覚えるが、新しいものを生みだす力は持てない、創造力に欠けた、その意味で無気力な若者が造りだされていき、結局は社会全体が活力を失うことになるのではないだろうか。

未来を託された若い人たちが、その可能性を枯らすことなく、伸びのびと創造力を育て、ゆたかに大きな花を咲かせていけるよう、そのための土台づくりに、ささやかながら手をさしのべたいというのが、私の教師としての小さな願いである。

 

(たけかわ かずこ・福島県立医科大学教授)

 

 

 


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