教育福島0071号(1982年(S57)06月)-007page

[検索] [目次] [PDF] [前] [次]

提言

 

る。しかし、現代の書は如何に待遇されているのか。現代の指導層の在り方も一因だが、人間の「いのち」の根源が薄れているためだろう。

本来の「いのち」への復帰は、老境に入って新しく拓き得る世界で、その洗練度なのだと言う人がいる。磨きに磨いて光沢を出し香気を発するのは、五十代に蔵されているようにも思う。だが、こうした練度への素地は、若い世代の基礎学にこそ打ち開かれるものと思う。と、同時に、自らを顧みてその基礎の浅きを羞るところで、この道の多くの名士たちのあまりにも遠く隔たっているのに絶望もする。

 

年頭に読んだ井上靖氏の随想が印象に鮮しい。先生は「老いは年齢相応に着々と牙をむいて近づくが、七十五歳は老人の真中ごろに位置する。本人はさほど老境に入っている実感はなく、中国新彊の集落や天山山中の辺境地帯に行きたいと夢を語り、ホテルの大工事の現場に立つ九十一歳の建築家を訪ね、この時ほど自分の老齢が中途半端でいい加減なものに思えたことはない」といった文章を綴っている。七十五歳が中途半端なら、私の五十五歳など人生の緒についたところだろう。

芭蕉は四十過ぎて蕉風体を見つけ、蕪村は五十五歳で新風を打ち出している。

高浜虚子先生の俳話に

俳句という伝統芸術は、先人の志した処を踏襲し、而して新しい境地を見出すべきである。深く深くと志して、長く生命のある新しさを発見する。即ち、深いということが新しいということで「深は新なり」と。

 

象刻・延年益寿

象刻・延年益寿

 

書・自在天

書・自在天

 

 

 


[検索] [目次] [PDF] [前] [次]

掲載情報の著作権は情報提供者及び福島県教育委員会に帰属します。