教育福島0076号(1982年(S57)11月)-005page

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巻頭言

 

歴史教育について論議を

 

佐藤光

 

佐藤光

 

「侵略」か「進出」かで、大騒ぎとなった教科書問題も、実は、今回の検定で書き改めさせた事実は全くなかったのを、あったかのごとく報道した大新聞やテレビの誤報が火元であったということで結末を告げた。

しかし、考えてみると、教科書問題は、今に始まったことではなく、戦後ずっと続いてきた問題である。占領軍の指示で墨でまつ黒に塗りつぶされた教科書で戦後の教育が始まってから、教科書は不幸な運命を辿ることになったのである。特に修身教科書は教育勅語に、歴史教科書は皇国史観に基づいたものとして、きびしく断罪された。修身(道徳)教科書は、ついに陽の目をみることがなかったし、自由出版となって現れた歴史教科書は、皇国史観に対する極端な反動として、唯物史観中心のものが多くなった。支配階級の圧政・抑圧・搾取と、人民の困窮と反抗、百姓一揆、対外侵略戦争と暴逆、文化の後進性……が強調され、極端に言えば、日本民族は、父祖代々、犯罪的行為と過誤ばかり繰り返してきたことになった。その他の社会科教育も、資本主義は悪玉といったような議論がまかり通ることになった。

これではあまりひどいのではないかという批判が高まり、三十年頃、いわゆる「憂うべき教科書」問題として大きな政治問題になったほどである。文部省の検定制度は、このような背景のもとに作動していったように思う。したがって、その方向は、教科書のかたよりをいくらかでも食い止めようとする方向へ働き、この力のぶつかり合いが、今日まで続いているとみてよいであろう。十数年に及んだ「家永教科書裁判」は、その象徴でもあろう。この事件は、戦後、急転回したような人も教科書を書くようになったため起きたものであったが、過去と現代の日本をことごとく悪しざまに描いてみせ、唯物史観を中心とした教科書の典型を見事に作ってみせた例ともいえよう。

ところで、文学者の三浦朱門氏が、「歴史教科書を専門家から取り上げよう」(中央公論・十月号)という、興味ある論文を書いている。学者がアルバイトのつもりで、主観的恣意でもって教科書を作られてはかなわないということであろう。教育の現場で、子供たちに教える教師は、学者一人一人の史観とは別に、「自国の歴史を次代に伝える目的はなんであるのか」「自国に対する侮蔑や嫌悪感を植えつけるために歴史教育を行ってよいものかどうか」について、教育という営みの原点に立ち返って、考えてみる必要があるのではなかろうか。「自国の歴史をどのように子供たちに教えるべきか」を問題にした議論が、教育界に大いに起こってほしいものである。それには単に、歴史教育を担当する教員ばかりでなく、教壇に立って次代を教えるほどの者は、みな関心を持つべきことと思われるからである。

(さとうひかる・福島県文化センター館長)

 

 

 


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