教育福島0077号(1982年(S57)12月)-007page

[検索] [目次] [PDF] [前] [次]

しかし、それを避けざるを得ない事情があるに違いない。それをうすうす感じながらも断るより仕方がなかった非力と、無難な道を選んだことの理由に、自分の家族と周囲の安全をふりかざしていることのいやらしさが、どうしてもわだかまるのである。

最近、若い僧が大勢の参拝者たち一人一人に、ひと口説法をするところに居合わせた。「おばあさんはどこから来ましたか」と聞く口調が、テレビやラジオのインタビューのそれと似かよっている。中年紳士などには、丁寧な語りかけをしているのだが、老人や子供には、つい気安さからの口調で、「おじいちゃん、おばあちゃん、坊や」などと呼びかけている。それが、どうも弱い者への心くばりが足りない音韻で響いてくるのである。私がかわってお年寄りや子供への声をかけてみせたのだが、若い彼は、全然気付かなかった。ただ丁寧な口調としか聞こえなかったらしい。

私が、老人の持っている年輪と、子供の持っているまっすぐな素直さを、心から素晴しいと思うようになったのは、ごず最近のことである。心から素晴しいと思うからこそ、高い位置から見おろしたような説法も語りかけもできない。逆に、老人や子供から、その素晴しさを少しでも傾けてほしいと思う。だから、自然と言葉づかいも丁寧になるのである。

そう思うようになったのも、自分の年齢が、人生の半分を越えたことと、「子ども俳句」の仕事を通じて、多くの子供のこころに触れているからであろう。

シャブ中毒の電話相談についてのわだかまりも、その人たちのせつなさが身にしみるからであり、また、そのような人たちのつっぱりの奥にある、やさしい心に何度か触れたことがあるからでもある。

私の仕事は、強い心と雄々しい心が座標のX軸Y軸になるのではなく、弱い心と美しい心が、それぞれX軸とY軸になるらしい。

学校教育も、多分同じだと思う。

 

▲吉野和尚自作俳句の揮毫

▲吉野和尚自作俳句の揮毫

 

▼一茶まつりの行われる炎天寺

る。五十歳の円熟した俳人和尚の次のアイディアは…と今から楽しみである。

「炎天寺の和尚のテレホン法話です。今日のお話は…」と身近な題材で、肩のこらない法話が流れてくるしかけになっている。時々トチル和尚の話が面白いという声も。とにかくアイディア和尚ではある。五十歳の円熟した俳人和尚の次のアイディアは…と今から楽しみである。

 

ていげん

 

 

 


[検索] [目次] [PDF] [前] [次]

掲載情報の著作権は情報提供者及び福島県教育委員会に帰属します。