教育福島0077号(1982年(S57)12月)-026page

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随想

 

生徒からの贈りもの

 

金川 勇次

 

金川 勇次

 

早いもので、私が教壇に立って半年が過ぎました。今ふり返ってみて、二十数年生きている中で、この半年ほど多くのことを学んだことはなかったと思います。

三月まで学生だった私が、教員となってベテランの先生方と同じ資格を与えられ、自分としては早く良い教師になって先輩の先生方のような素晴しい授業をしたいと意気込むのですが、他の先生方に迷惑ばかりかけてしまいました。先生方は、まだ若いからと、かばってくださるのですが、私は自分の非力さをいやが上にも感ぜずにはいられまぜんでしたし、自分の若さを恨みさえしました。私は、このあせりといらだちの中で、又、生徒指導部員、バスケットボールとJRCの副顧問として、仕事の忙しさの中で教師としての自分を見失いかけていたようでした。しかし、生徒とのふれあいの中で自分はどうあけべきか教えられました。

それは二年生のあるクラスでのことです。このクラスは活気がなく授業態度も決して良いものではありませんでした。ある授業の時、出欠確認をしていると数人の生徒がみあたりません。ふと見ると、ペランダで頭が見え隠れしていました。すぐ廊下に出して、注意を始めました。私は、彼らがわざと隠れていたと思っていましたが、彼らは私が入室したのに気がつかなかったと言って、言い合いになりました。席についていなかった非は素直に認めたのですが、わざと隠れたのではないという主張は変わりませんでした。その時一人の生徒が、「先生には、俺達のこと信じてもらえねのかい」と言ったのです。私は彼らの授業態度にも、腹を立てていたので、思わず「おまえらの授業態度や今日のことを考えて、おれにおまえらを信じろっていうのか」と言ってしまいました。言ってしまってから、自分の倣慢さに気づき樗然としてしまいました。私はそれほど偉い人間なのか。それほど生徒を信じられない教師なのか。別の生徒がしばらくしてからこう言いました。「先生、最近自分だけで授業を進めてんじゃないですか。前はわかったけど、今は全然わかんね」

この言葉も先の言葉も、教師の本分を見失いかけていた私への批判であり、彼らが私に与えてくれた宿題でもあります。教師が生徒を信じなくなってはいけないと思います。たとえ生徒がその信頼に応えないとしても、そこであきらめては生徒も教師を信頼できなくなってしまいます。お互いにぶつかり合ってばかりでは教育は生まれてこないでしょう。又、授業に関しては授業の主体はあくまで生徒であり、進度が遅れていようがいまいが授業を行う上で忘れてはならないことでした。

生徒を信じることも、授業の主体が生徒であることも教育書を開けば、一番初めに載っていることです。しかし私は、実感としてこの二つを把握できました。これは私の宝です。生徒からもらった宝石です。

私は先に、この半年ほど多くのことを学んだことはなかったと書きましたが、その多くは、生徒とのふれあいの中から生まれたものです。学生時代に外側から教師というものを考えていたときには想像のつかなかったものばかりです。

そして今、教師一年めの残りの半年を、教師になりたてのときとは違って肩の力をぬいて素直に生徒に接することができそうです。多くの先輩の先生方に追いつくまでは、まだ時間がかかるかもしれませんが、若さを一つの武器にして、がんばっていきたいと思っています。

(福島県立本宮高等学校教諭)

 

いいかな……

いいかな……

 

 

 

 


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