教育福島0083号(1983年(S58)08月)-045page
子どもを媒体として関係が成り立っている以上、子どもを最優先として考え合う関係であるべきですが、家庭では学校に預けてしまえばすべての教育を任せてしまう考えになり、先生がしっかりしていないから悪い方向に進む、成績が向上しない、教育の方針や内容が不足ではないか等の毒が上ります。
また学校でも、「子どもの一挙一動にまでは目が行き届かない。家庭でしっかりとした行動をしつけよ」ということになります。
お互いの立場での言い分が先行し、肝心の子どもについては、大きな問題のある場合を除いて話し合う機会が少ない感じがします。
時にかい間みる先生方は、時間内を精一杯に動いておられます。
「先生、実は……」のひと言がどうしても言いそびれてしまいます。特に小さな問題点については、自分の子どもだけが生徒ではない、こんなささいなことで侍間をいただくのは恐縮だと遠慮し見過してしまいます。良い事でも悪い事でも、発芽の時期こそ大切に扱わなければならないと思いますが、芽の性質について親として判断を下すまでの自信がないというとき、頼るべき先生が忙しすぎるというのは非常に不安を覚える要因となります。
今、家庭で親はどう対応すればよいのか、学校ではどう扱い、どんなふうに指導していただいているのか、子どもたちの現状さえ把握できないというのが現実では話し合う時間がいかに不足かと言えましょう。パイプはつながっていても、このパイプが細いために限られたことしか流れてこないのだと感じます。
次に親として問題に思うことを述べてみます。
先生と親の連携が密でないために起こる弊害はいろいろあると思いますが先ず第一に、お互いの一方的な考え方で子どもに対応することが多くなることが考えられます。
親は教育の専門家である先生方に全面的に依存して、ある意味では責任を押しつけていますし、先生方も家庭で親としての役割りを充分に果してほしいと願っておられると思います。第二には、やはり先生と親が膝を交えて語り合う機会が少なくなったということです。お茶を飲みながらゆっくりなどということは全くといっていいほど無く、PTA行事にしても型どおりの事業消化で終ることが多く、本来の目的である、学校と家庭の立場で教育的効果を向上するため、先生と親の精神的な橋渡しをするという役目を忘れているのではないかと感じます。また親も"子どもを人質にとられている"というような考えで学校や先生にかかわっているところにも大きな問題がありそうです。過日、先生に叩かれた子どもの親が、教育委員会に直訴して先生の処分を考えてもらうというものですから、私も驚いて"何故叩かれたのか""子どもに悪い点がなかったのか"よく話し合って見たのか聞いてみました脹れるほど叩く事はないだろうという理由だったようですが、親自身の見方や考え方が、自らパイプの通りを悪くしている場合もあると反省させられました。
最後に親として期待していることを申し上げて見たいと思います。
家庭も学校も子どもを育てる場であり、人間が教えているという共通点から連携の基本は先生方と親との好ましい人間関係を確立することにあると思います。そのためには、繰り返しになりますが、先生と父兄が接触する機会を一回でも多くする努力が必要であろうと考えます。
しかしながら、先生方は勤務時間が終わると大半がご自分の居住地に帰られます。親も共稼ぎが多く自由時間が少なくなっていますので接点は益々せばめられています。
今年二月から三月にかけて毎日のようにマスコミを賑わせた生徒の無謀な行為の数々に多くの方々から先生方は勤務地に居住されるのが望ましいという声が寄せられていましたが、私もできることならそうあっていただきたいと考えた一人です。先生方にも生活がおありですから、親の勝手な願いだと承知はしていますが、同じ町内に居住する、しないでは親近感も異なり、常に連絡がとれるという事でより深い連携ができるのではないかと思うからです。以上、一般的な考えをのべさせていただきましたが、具体的にはこれといった名案はありません。
PTA活動の一環として保護者と教師が話し合える事業を計画するとか、年一回の家庭訪問を時間をかけて実施するとか、毎月決った日に親が出向いて相談できる日を設定しておくなど、とも角、親と教師が本音で話し合いができ、連絡しあえる場が整備されることが先決で、ここから学校と家庭の連携の智恵が生れてくると考えます。
「校外における補導活動はどうあればよいか」
福島県立相馬農業高等学校
PTA副会長(浪江地区保護委員)
山田 忠正
現在私の長男は農業の後継ぎをするために県立相馬農業高校におせわになっております。私は当然ここのPTAの会員でありますが、また同時に相双高等学校保護委員会の単位組織であり