教育福島0084号(1983年(S58)09月)-005page

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巻頭言

 

やってみせて

 

やってみせて

古山直一

 

五月中頃の雨あがりのさわやかな一日、市内西部の中学校を訪問し、特色ある特別教育活動の実際をみる機会を得た。

「梨の実会」と名づけられたこの活動は、地域の特色をとり入れた「梨栽培の研究班」「五葉松研究班」「伝統工芸研究班」等に分かれており、参加している生徒一人一人が実に生き生きと学習に参加しているのである。

二人の農業後継者の青年、六十歳代とみえる松の手入れの達人、わら工芸品づくりの老人、こんな地域の人が、中学生相手に自信に満ちた手さばきで指導していた。梨の枝の下で、適度な解放感を味わいながらも、若い二人の先輩青年が示範する摘果の指先に集中する生徒の目に、心地よい緊張感をみることができた。

そんな風景を目の前にしていると、かつての四年ばかりの海軍生活がふと頭をよぎったのであった。

山本五十六のことばに、「やってみせて、口で教えて、やらせてみて、ほめてやらねば人は動かじ」というのがある。これは長い海軍軍人としての体験と、並はずれた豊かな人間性から生まれたものだろうが、どうもこれがあらゆる組織体における指導と教育の原則を言いつくしているように思える。また、そんなことを考えさせられることが近頃たいへん多いと思う。

教える側の実行・示範は、教えられる側をひきつける。ついでことばで教えてやって、当人にやろうという意欲をもたせる。つまり指導の一貫性を持っことである。そしてできたら「それでよいのだ」と一緒によろこぶ。

このうちの一つでも二つでもが欠けたり、順序を誤ったりするとうまくいかない。これは教育作用を伴うすべての場合がそうだ。親と子、そして教師と生徒の間では当然のことながら強くのぞまれている。

これは余談だが、先のことばには替え歌があった。「やってみせて、口で教えて注意して、それでできなきやなぐるしかない」というものであった。

当時軍隊では、なぐることは日常茶飯事であった。よくなぐられもした。しかし、なぐるにも順序があった。今日、ほめる教育に異論をいう人はいない。叱る教育はどうしたらいいのか、ほめる教育とのバランス、その方法、問題はたくさんある。

教育の現場では、いろいろと創意、工夫はみられているが、学校での一日、そして授業にアレルギー状態にある何人かの生徒はいるものだ。が、「梨の実会」の学習が静かに真剣にすすめられている雰囲気に接してみると、アレルギーどころか意欲に満ちた姿をそこに見ることができた。

(ふるやまただいち・福島市教育委員会教育長)

 

 

 


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