教育福島0084号(1983年(S58)09月)-018page

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随想

 

J子からの手紙

 

藤田 汎子

 

藤田 汎子

 

J子から手紙がきた。「先生、五月八日は小学校生活最後の運動会です。私達は最高学年としていろいろな役割につき、小学校生活最後の運動会を成功させたいと話し合っているんです。先生、時間があったら是非、見に来てくださいね。待っています」

彼女は、海辺の町にある幼稚園に勤務した折、一年保育で入園してきた。生まれると同時に母親に死別し、兄二人と父親の中で、病弱な祖母に育てられ、何をするにも手をかしてやらないとできないほど、生活経験のとぼしい子でした。そのひ弱な彼女が、今、小学校最後の運動会を友達と力を合わせて成功させようと頑張っている。何か身体の中から熱いものがわき上ってくるように感じました。

当日はよく晴れ、正に五月晴れのさわやかな運動会日和。私は木陰から、一生懸命子供達の走りまわる姿を目で追いました。あ、O男だ、M子もH美もT也もS夫もいる!大きくなったなー。動きまわる顔の片隅に、あのころのあどけなさ、かわいらしさがそのまま残っている。多勢の中から知った顔を見つけるたび、まるで恋人の姿でも見つけたように、胸が躍った。

マスゲームの準備で、全六年生が入場門に集まってきた時、J子をみつけた。小さかった彼女は、見上げるほど背が伸び、前から二番目にならんでいた。小さい方ばかりさがしていたので見つからなかったのだ。「Jちゃん」とそっと声をかけると、けげんそうな表情で見つめかえした。まわりに居た子供達も同様に…。「J子ちゃん、ほら、ばら組の時の…」と言うと、急に顔面一杯に笑みがもどり、「あー先生!わあー先生来てくれたの。あ、じゃあみんなのこと集めっから」係の先生の手前もあって制止したが、すばやくとんでいって、当時のクラスの子供達を十五〜六人集めてきた。昨年母親をなくしたT也、甘えん坊だったC男、双子のY子とN子、きかん坊だったM子I子などなど。

「先生、私のこと覚えてる?」「廊下に立ってなって言われて泣いちゃったっけなー。」「あれ?何でそんなこと言われた?」「Mちゃんとふざけっこして走ったから、ねえ」とM子に同意を求める。「マラソン苦しかった」「工作やってて手けがしちゃったんだ」「ほらー!集まれ!」係の先生のメガホンが鳴って散っていった。時間があったらどんな話が飛び出しただろう。

私は、子供は、幼稚園のころのことなど、ほとんど忘れているのだろうと思っていた。しかしそれは、本当に自分よがりの考えであったことに気付き木槌で強くたたかれたようなショックさえ覚えた。たった一年間だけの、あの幼稚園生活を、あんなに鮮かに覚えているとは。徐々に過去が鮮明に、目の前に映し出された。

家庭の温かさの中にとっぷりとつかっていた子や、保育園で二年、一年とすごしてきた子など、さまざまな経験をしてきた子供達Kなるだけ二年保育年長組のレベルまで引き上げようと焦っていた。ハサミも扱えない子、衣服の着脱も満足にできない子、スキップもできない子、そんな子供達に、私は次々難題もへ苦しい課題も教えていった。しかし彼等は、園生活に親しみ苦しい課題を一つ一つ克服して、集団のきまりや必要な技能を身につけていった。そんな中でJ子はやはり、他の子より遅れがちで、友達と遊ぶよりは私にまとわりつき、なかなか生活習慣も自立できずにいた。そして私自身も母親のいないハンデを、私にまとわりつくことで満たしている彼女を容認していたように思う。そんなJ子が、生き生きとして友達の先頭になり活躍している姿は本当に驚くばかりでした。

幾日かして、またJ子から手紙がきた。「運動会には来てくれてありがとう。とっても嬉しかった。本当は来てくれないと思っていたの。先生変わっちゃったって、みんな言ってたよ。今度みんなで先生の家に行こうって言ってたんだけど、いいですか。返事下さい」私にはまた、楽しみが増えた。彼等の成長を確められる楽しみと同時に彼等のイメージをこわしはしないか不安でもある。いつまでも彼等の理想をうらぎらない"先生"でありたいと考えさせられたJ子からの手紙でした。

(いわき市立江名幼稚園教諭)

 

 

 


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