教育福島0085号(1983年(S58)10月)-005page

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巻頭言

 

日々新たに

 

成田政栄

 

成田政栄

 

公舎に板塀があった頃、こどもの落書きが絶えなかった。人名もあれば、絵もあり、線もあった。家内は見つけ次第注意をして消し続けてきた。

ある時、またも落書きをしているこどもを見つけた。「落書きをしては駄目」と注意すると、「違うよ。僕消してるんだ」と泣き顔で言う。女の子の名前と並んで書かれている自分の名前を消しゴムで消しているところであった。あわてて謝罪のうえ、ありあわせのお菓子で慰謝料を払ったという。

「書く」のと「消す」のとではたいへんな違いである。

この話を聞かされて、教師と生徒の間にも、これに似た事例が案外多いのではないかと考えさせられた。

生徒が反証できる場合はそれでよいとしても、内気な生徒や言っても信用して貰えないと思っている生徒の場合には黙っていることが多い。誤解は永久にそのまま残ることになる。やり場のないふんまんが教師と大人一般に向けられることもあろう。

どのような生徒でも、その存在を認められたい、正当に評価して貰いたいという気持ちは持っている。

勉強でも部活動でも見込みがなければ、他の方法で自己主張、自己表現をするより仕方がない。特異な服装をしたり奇声を発して授業を妨げたりするのも、このような心理から出発しているようである。そして、愚かににも、また叱られる種をつくることになる。

廊下のすれ違いの際の、何気ない温かい一言が、問題を持つ生徒を立ち直らせる契機になることは実に多い。結局、このことは、教師がその生徒の存在を認めたことになるからであろう。

生徒名簿をみると、どの名前も、親の熱い願いがこめられていることを感じる。このようなこどもを、親に代わって我々は教育している一という素朴な発想にたってもう一度教育というものを見直してみたい。しかも、しょせん教育とは、教師という不完全な人間がより未発達、未熟な児童・生徒を教え育てる作用ではなかろうか。

現在の青少年問題なども、家庭にも社会にも原因はあろうが、教師自身の厳しい自己反省なしでは改善もなければ進歩もないであろう。

少なくとも、生徒に対するマイナスの先入観念や固定観念をぬぐい去り、日々新たな気持ちで生徒に接したいものである。このことは、問題生徒が救われるだけでなく、教師側の精神衛生上もプラスになる。

真面目な教師は多くの長所を持っている反面、細かく、かつ、過去にこだわりがちな傾向があるという。案外、心のゆとりの乏しい真面目教師が生徒をより駄目にしているのかもしれない。

お互いに自戒したいものである。

毎日毎日を空青く雲白しの心境で生徒に接したいものである。

 

(なりたまさえい・福島県立白河・白河第二高等学校校長)

 

 

 


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